ダダイストの陰謀 ・・・「外山恒一の『ニセ選挙運動』~現代美術パフォーマンスとしての記録」 スイス大使館アートコンペ、堂々の1位


「政府転覆の恐ろしいインボー」の推進に日々余念のない私が、あろうことかその種の恐ろしいインボーに巻き込まれる側になってしまうという非常事態に直面している。

思えば伏線は前々から張られていた。

7月の東京都知事選で、私はここ最近ルーティンに繰り返している“ニセ選挙運動”を性懲りもなくまた繰り返してみたわけだが、その初日の7月14日、我が九州ファシスト党〈我々団〉の同志で、この時にも“ニセうぐいす嬢”をやっていた山本桜子に、港区は南麻布にあるスイス大使館前へと“ニセ選挙カー”を走らせるよう強く提案され、とくに反対する理由もないし、素直に従った。のちにこの私ともあろう者が、「恐ろしいインボー」にうかうかと巻き込まれていく、これが最初の罠だったのだ。

スイス大使館が見えてくると桜子は私からマイクを奪い、「ダダイズム100周年、おめでとうございます! ダダ万歳。トリスタン・ツァラ万歳。『破壊と否定の大きな仕事がある』とツァラは云いました。我が九州ファシスト党が、ダダイズムの精神を受け継ぎ、破壊と否定の大きな仕事を日夜推進してまいります!」などと叫び始めた。

 

 

 

説明が必要だろう。

ダダイズムとは20世紀初頭の前衛芸術運動の一派で、それは桜子に云わせれば「芸術とか云ってる奴らは死ね、ということを表現する芸術」の運動らしい。桜子はもともとこのダダイズムの研究家で、創始者であるトリスタン・ツァラの戯曲をダダイズム研究誌に翻訳発表するなどの地道な活動を続けていたが、2007年春、たまたま通りかかった高円寺駅前のロータリーで、その時はニセ候補者ではなくマジ候補者として東京都知事選に立候補していた私の支持者集会に遭遇し、「これこそ現代のダダイズムだ!」とカツゼン大悟して、“ダダイズムの研究から実践へ”と称して我が九州ファシスト党の活動に身を投じた、という経歴の持ち主である。

ダダ宣言 (1970年)そして先日の都知事選の初日となった7月14日は、ダダイスト桜子にとって、「フランス革命勃発(バスティーユ監獄襲撃)の記念日」なんぞであるよりもまず、「ダダイズムの誕生日」なのだという。

ダダイズムの運動の起点は、第一次世界大戦の真っ只中の1916年7月14日、スイスのチューリヒでツァラらが主催して敢行した「ダダの夕べ」であるとされる。当時、永世中立国のスイスには、ヨーロッパじゅうから怪しげな若者たちが亡命してきており、その中にはレーニンなどの革命家もいたし、単なる徴兵忌避者たちもいたし、そして前衛芸術家たちもいた。「ダダの夕べ」は、まあ要は意味不明な詩の朗読や即興演奏のイベントとして始まるが、やがて自らの方向性を言語化し、例えば「ダダは何も意味しない」などの有名なスローガンを生む。私も1918年の「ダダ宣言」の中にある「私は原則として宣言というものに反対だ。原則というものにも反対であるように」といった、ダダイズムの真骨頂たる、意味を脱臼させていくフレーズが大好きだ。ともかく桜子に云わせれば、この日は何よりもまず「ダダイズム誕生の日」、しかも今年はとくにちょうど100周年のおめでたい節目で、たしかに“ダダイズム的な政治運動”と見なせなくもない“ニセ選挙運動”の“ニセ選挙カー”を、ダダイズム発祥の地であるスイスの大使館前へと走らせることになったのである。

そしてもう1つの伏線が、この“ニセ選挙運動”を面白がって、都知事選の17日間、ほぼ毎日“ニセ選挙カー”に乗り込み、我々“政治的ダダイスト”たちの活動の様子をカメラに収め、レポート動画を毎日Youtubeにアップし続けた織田曜一郎氏の存在である。

織田氏は某サブカル誌の編集者だが、前回2014年の東京都知事選に際して、やはり“原発推進派・舛添サンほめごろ…いや大絶賛キャンペーン”と称して非常識いや革命的な運動を展開した私に、しょせんサブカルの人なので興味本位の面白半分で近づいてきて、左右の異端派や諸芸術の異端派や単なる異端派が群れ集う“外山恒一界隈”の交流圏に興味本位の面白半分で入り浸るようになった。当然サブカルには詳しいが、大真面目な芸術運動であるダダイズムなどにはとても造詣が浅い。

fireshot-screen-capture-162-dada-competition-dada100-dada100_jp_dada-competitionさらに第3の伏線として、実は当のスイス大使館も、まあ世界じゅうでやってるんだろうが、日が昇る方角にあって縁起がいいぐらいしか自慢しうるところのない極東の後進国・日本でも、「ダダイズム100周年」の記念事業を計画していたのである。ダダイズムに関連した作品を一般から募って優勝者を表彰する、というまさに後進国での開催にふさわしいお手軽なものだ。

まず我が九州ファシスト党のダダイスト・山本桜子と、やはり我が九州ファシスト党が擁する優秀な芸術理論家である東野大地が、このスイス大使館主催の「ダダイズム・コンペ」に、やる気のないテキトーな作品を応募するところから、インボーは本格的に始動した。そんなんだったらオレのほうがもっと面白いものを作れると思ったか、それともそう思わせることが我が九州ファシスト党・芸術部門の2人の深慮遠謀だったのか、ダダイズムにも真面目な芸術全般にもまったく部外者なサブカル人間の織田氏が、くだんの“ニセ選挙運動”の記録映像を新たに編集し直して、“ダダイズム関連作品でございます”と出品してしまったのである。

コンペの審査方法というのがこれまたテキトーな、いやこれぞまさにダダイズム的と云うべきか、“応募された作品をFacebook上の特設ページに全部一律の扱いで並べて、イイネ!数で決める”という、今さら陳腐すぎて画期的なものである。山本桜子らは自分が出品した作品のことなど放ったらかして、「織田氏の作品に a446dc7c イイネしよう!」と周囲に大々的に呼びかけ始めた。

そしてなんと恐ろしいことに、政治活動家としても前衛芸術家としても革命思想家としても文筆家としても超一流の私をまったく正当に評価できない文壇や論壇やアカデミズムや芸術シーンを抱えるこの一流後進国にダダイズムの関連イベントに興味を持つ人間がそう多いはずもなく、たいして影響力・発信力があるはずもない我が党の2人の党員の呼びかけによって、織田氏の動画作品外山恒一の『ニセ選挙運動』~現代美術パフォーマンスとしての記録は、これを書いている9月10日現在、2位以下を圧倒的に(100票ぐらいだが)引き離して、堂々の1位にランクされているのである。

 

これはヤバい。今回、私は完全に蚊帳の外で、要は“ウチの若いモン”2人が勝手に暴走しているだけである。しかし織田氏の作品がまんまとこのまま優勝してしまうと、私は極めてキビシー状況に置かれることになる。織田氏はただ無邪気に私の活動を面白がっているだけで、必ずしも“賛同”しているわけでもないはずだが、出品された作品は、こともあろうに「ファシスト」の政治活動を、まったく批判的な視点なしに“面白がる”内容である。そんなものを優勝させて表彰し、製作者を自国に招待などすれば(優勝賞品はスイス旅行)、スイス大使館は国際社会からの非難を浴びかねない。私は何もカンケーないのに、矢面に立たされ、スイス国民から恨まれ、スイスとの外交問題を惹起したとして日本国民からも恨まれ、ひいては世界じゅうから後ろ指をさされて、四面楚歌の状況に陥ってしまう。

何という恐ろしいインボーなんだ。しかもまさか身内のインボーで窮地に立たされるとは。

もちろんスイス大使館も大慌てだ。当初は「Facebookのイイネ!数で決める」と云っていたはずが、急に「いやいや、上位作品の中から審査して決める」とか云い出している。

私としては助かるが、しかしそれはそれで大きな問題を孕んでもいる。なにせダダイズムのコンペなのである。ダダイズム運動史上の有名な事件に「バレス裁判」というものがある。

モーリス・バレスは、千坂恭二氏の要約によれば、「『自我礼拝』(という小説作品)で世紀末のデカダン青年を魅了した」フランスの作家で、ダダイズムの運動に結集した当時の若き前衛芸術家たちも、みんなバレスの熱心な支持者だった。ところがバレスは次第に「血と大地に根ざす国粋主義者となりファシストの先駆となる」。

ダダイズムから出発して、のちにシュールレアリズムの創始者となるアンドレ・ブルトンは、バレスの“変節”に怒り、バレス糾弾を意図した模擬裁判形式のパフォーマンス・イベントを開催する。「バレス裁判」である。凡庸な左翼的正義に基づいてバレスを論難する“ブルトン裁判長”に対して、“証人”として“出廷”したツァラは、このバレス糾弾イベントそのものを徹底的に茶化すという挙に出て、これはやがてブルトンとツァラが袂を分かつに至る伏線の1つになる。

つまり、“意味の破壊者”たるダダイズムの創始者ツァラは、何らかの政治的立場を標榜する者をただそのことを理由に非難するような凡庸さをせせら笑ったのである。「ファシズム」を面白半分に題材にした作品を選考から排除するために審査方法を急に変えた、と疑われるような振る舞いは、ダダイズムの顕彰を掲げるスイス大使館にとしても避けたいところであるに違いない。

まあ正直に云って、今回の織田氏の作品が、ダダイズム的に優れているとは私も思わないし、スイス大使館にとって最も穏便で望ましい問題解決の方法は、今のところ2位につけている作品がどうにか奇跡の大逆転を果たしてくれることだろうし、私としてもそっちのほうが助かる。

“暫定2位”の作品は、我が九州ファシスト党の秘密諜報員たちの調査結果によれば、現役東大生と東大OBの3人組の手になるものだという。おお、東大生か。さぞかしダダイズムの精神を正確に理解し、しかしそれをただルーティンに模倣するには終わらない、優秀な作品を提出しているに違いない。しかも我々のごとき怪しげな在野の徒党など足元にも及ばない、立派な人脈をお持ちであるに違いないから、“組織票”も期待できる。頼んだぞ、東大閥!

そう思って当該作品「つらつら」を見たんだが……ダメじゃん。

ダメなりに我々に対して敵愾心を燃やし、“組織票”固めで形勢逆転を企図してか、織田氏の作品を批判し、「つらつら」への投票を呼びかける記事も彼らによって書かれ、公開されている。「歯ブラシで磨り潰される豆腐、排水溝に流れ込む生卵、ヒステリックな叫び声」など、いかにもダダイズム的な定型イメージに寄りかかって、「狂気に満ちた」感じを出そう出そうという努力の甲斐むなしく、「作品の構造においてコンペそのものを無効化し、笑いものにし、解体する」ことを意図していると称しながら、だから自分たちを優勝させてください、という芸のない必死の嘆願は真にダダイズム的な精神を白けさせるものでしかない。

織田氏の作品は、たしかに彼らが指摘するように「九州ファシスト党・外山恒一の街宣風景をただ撮影して繋ぎ合わせた」だけのもので、「知名度頼み」という非難には異論もあるが(その知名度はこれまで日本のあらゆる政治的・芸術的・思想的シーンで有利に働いてはいないのだから)、映像作品としては「強度のない」ものでもあろうが、織田氏はべつに“ダダイズムの作品”としてこれを提出したのではなく、主催者が募集しているのも「ダダイズムに触発された」作品であって、“ダダイズムの作品”ではない。織田氏の作品は、いわば“報道”的な作品であり、織田氏が“これこそダダイズムではないか?”と考えた出来事を、第三者として、かつ織田氏の見解も含みこむ形で報告した“ルポ作品”であり、「ダダイズムに触発された」作品という意味で、コンペの趣旨から少しも外れるものではない。

1011177_10152959960915298_154160538_nしかも題材となっている我が九州ファシスト党の“ニセ選挙運動”は、まぎれもなくダダイズム的な芸術実践で(も)あるし、ダダイズムであれ何であれ、現代美術のパフォーマーとして(も)私以上の存在が現在の日本にいるはずがない。

そして最も重要なのは、「作品の構造においてコンペそのものを無効化し、笑いものにし、解体する」とか云いながら優勝したくてたまらないショボい野心が透けて見えて痛々しい東大閥の皆さんと違って、織田氏や我が九州ファシスト党の芸術工作員たちは、本当に根っから「ダダイズム・コンペ」なるものを茶化し、嘲笑し、ただ遊んでいるだけであるところだ。「織田さんを無駄にスイスへ送ろう!」の合言葉には、ひたすら彼らの不真面目さと、コンペそのものや主催者への悪意だけが表現されている。実際、先述のとおり、こんな作品を優勝させてしまってはスイス大使館は本当に国際的な非難を浴びかねない。

織田氏の本来の意図は分からないが、織田氏がこの作品を提出したことそのものが、「芸術とか云ってる奴らは死ね」的な、ダダイズム的な悪意に満ちたインボーが発動されるきっかけとなったことは否定できまい。織田氏の本来の意図がどうあれ、織田氏の作品提出行為は、ダダイズムだ何だと息巻いたところで芸術は「ファシズム」の絶対悪視を強要する現代世界の政治の力に抗うことなどできないし、抗おうともしない、ブルトンの「ファシズム批判」をまだしも茶化し得たツァラの時代よりも現代の芸術は政治に隷属させられており、芸術より政治のほうが何百倍も強いしエラいのだ、というミもフタもない現実を暴いて芸術を徹底的に貶めるパフォーマンスにさえなってしまう。「芸術」の外側から「芸術」を攻撃し、打撃を与えるのがダダイズムである。織田氏の「作品」それ自体の“芸術としての”価値や「強度」(笑)などどうでもいいのである。
どうせ主催者の判断で優勝は阻止されるに決まってるんだし、安心して織田氏の作品に「a446dc7c イイネ!」すればいいと思う。

 

a446dc7c イイネ!」は コチラ から。なお投票は9月15日までである。