キーボードの暴力革命 ・・・IT革命で突然降って湧いたようなバカどもによる「大衆の反逆」


 

 

炎上中、というほどでもないが、とにかく非難轟々である。「日刊SPA!」(『週刊SPA!』のweb版)に掲載されたプチ・インタビューが“火元”である。

 

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Yahoo!ニュースとかにも記事は転載されているようで、いま見てみると“コメント数1518件”となっていて(せんごひゃくぅ!?)、大半、というかほとんどは批判、というか罵倒、ヒボー中傷の類である。

むろん予想できたことではある。なにせタイトルからして「選挙に行くな!そして日本は中国に朝貢せよ!」である。「選挙に行くな」はともかく「中国に朝貢せよ」なんて主張が現下の状況で反発を呼ばないわけがない。文中にあるとおり、私の主張におおむね賛同してくれている周囲の親しい活動家諸君にも、この主張にだけはなかなか賛同してもらえないほどなのだ。

が、まあどーでもいい。私はこの4、5年、あちこちで“中華主義”を吹いて回っているのだが、今回の記事で文字起こしされているのはそのほんの一部、サワリというか表層的な結論部分だけで、それだけ聞かされりゃあ誰だって妄想扱いするに違いない“暴論”だからである。そもそもこの記事を含む特集(web版には私の記事しか掲載されていない)自体が、いわば“面白い暴論を集めてみました!”的なもので、暴論の暴論性をより印象づけるような書きぶりになるのが当たり前で、一種の“炎上商法”というやつだから、まんまと乗せられた連中はまことにお気の毒である。

私の“中華主義”の恐るべきインボーのゼンボーは、近日中にまた別の形で徐々に明らかにされるはずなので、現時点では「実は真意はこーゆーことなんですよ」的な釈明はしないが、要するにネトウヨどものリテラシーのなさには毎度のことながら感心する。結論だけしか云ってなくとも、この状況下で「中国に朝貢せよ」という主張が、字面からくるイメージそのまんまの意味であるはずがないことぐらい容易に想像がつきそうなものだが、もちろんその程度のリテラシーすらないからネトウヨなんかに堕ちてしまうのではある。短いインタビューだし、結論だけを、しかも特集の趣旨に合わせていかにも暴論っぽく聞こえるように語っているんだろうし、さらには記事を書いてるのは本人ではなく編集部なんだから、発言のニュアンスは実際のものとはかなり違っている可能性もある、というふうに考えるのが当たり前なんだが、その程度の常識もないからネトウヨなんかに身をやつしてしまうのではある。

おそらく日本語は難しすぎるのである。世界で最も難しい言語なのではないかと私はほぼ確信している。この超難解な言語を平然と使いこなす民族だからこそ、日本人は世界で一番優秀でもありうると私は思っているのだが、それは日本語を使いこなせた場合の話である。どうも日本人の日本語能力は年々退化していて、日本人が日本語をちゃんと使えなくなっており、母語さえマスターできない者がもはや圧倒的多数を占めるようになったからこそ、現在の日本人は世界に冠たる劣等民族に落ちぶれてしまっているのではないか?

そもそも日本語がこんなに難しい言語になったのも、ありがたや、ありがたや、やはり中華帝国様のおかげである。圧倒的に進んだ中国から漢字という文字が伝わってきて、当初はそれをそのまま使っていたものの、そのうちやっぱり日本語をそのまま書き表せるようにしたくなって、表意文字である漢字を表音文字的に発音だけ流用する方法を次第に発展させ、やがて仮名が生み出された経緯は、たぶんネトウヨでも小耳に挟んだことぐらいはあるに違いない。

ところが日本人は、せっかく母語を表記するための独自の文字を発明したにも関わらず、それを全面使用せず、つまりぶんしょうをかくときにぜんぶかなでひょうきするようなほうこうにもじたいけいをしんかさせたりはせず、漢字は漢字で残して使い続けた。しかも漢字を日本語読みする「訓読み」なんて発明もして、日本語はますます難解に進化した。「難」という字は「なん」とも読むし「むずかしい」とも「かたい」とも読む。

近代に入って以降は、もともと漢文を読み下しする時の補助的な文字だった片仮名を、主に欧米語を表記する文字として流用し、これまた独特のニュアンスを持ちうる表音文字として独立させた。例えば「危険」と「あぶない」と「アブナイ」は同じ意味だがニュアンスは相当に異なる。「危険」と「きけん」と「キケン」なら意味だけでなく発音まで同じだが、やはりニュアンスは相当に異なる。これほど複雑で難解な言語はたぶん他にない。

二重言語国家・日本 (NHKブックス) 日本文化は特異である。世界のどの文化よりも特異である。その特異な文化を絶えず再生産しているのが、漢字、平仮名、片仮名の三種類の文字からなる、世界のどこの言葉とも異なる日本語である。

漢字とハングルの二種類の文字を用いた場合の朝鮮語を除けば、世界の言語は、一語いずれも一種類の文字からなる。ところが、日本語は、漢字と平仮名と片仮名の三種類の文字を用いる。

三種類の文字をもつということは、単にひとつの言語を記述するための文字が三種類あるということではなく、一つの言語の中に三種類の原理が入り込んでいることを意味する。三種類の原理が入り込んでいることをたえず確認しながら言葉を使わざるをえない構造が、特異であるということである。

(石川 九楊 『二重言語国家・日本』 (NHKブックス) 1999年)

日本語が難しいのは、話し言葉として使う時でさえ、実は頭の中で無意識に文字を思い浮かべているからである。

「はじめまして、ヤマモトイチロウです」と言ってさし出された名刺に「山元市朗」と印刷されていたら、一瞬とまどいを感じる。「ヤマモトイチロウ」と聞いた時に、内心思い浮かべた「山本一郎」が肩すかしをくらい一瞬困惑したからだ。

(略)

このような日本語においては、「文字を書き」「声を聞く」のではなく、言葉の構造としては、「文字を聞き」「文字を話す」のだと言えよう。(略)日本語は声ではなく、文字の方が言葉の中心に位置している。「藤原定家」は「テイカ」であるか「サダイエ」であるか、あるいは「藤原」の次に「ノ」が入るか否かは、日本語にとって何等本質的な問題ではない。「藤原定家」という文字だけが重要なのである。

「教育長に『コーエン』を頼みに行く」と言うので何の『講演』かと思ったら、『後援』であったというような言葉の行き違いや笑話は日本語では日常茶飯事である。会話中に、「それどんな字を書くの?」「ああそうか」などと文字をめぐって会話を中断しながら会話するという、おそらく欧米ではありえないおかしな会話が交わされてもいる。

日本人は声を聞いているのではなく、文字を、あるいは文字で聞いている。

(同)

こうした日本語の特質は、もちろん圧倒的な先進国だった中華帝国様とのお付き合いの中で生まれ、定着したものである。

日本語はその思想をも含めた本質から言えば(原文7字傍点)、中国語圏に属する、中国語の植民地語であり、もともと中国語に属する漢語と、和語の二重言語である。

現在からは想像もつかぬ古代倭語の上に中国語がのしかかり、その中国語(詞)を核にその周囲に和語(辞)を補助的に集めた、詞辞二重構造をもつと同時に、中国語(詞)に対応する和語(詞)の創作と再編によって、漢語・和語二重複線性の日本語の構造は平安中後期には決定的なものとなった。この二重複線言語・日本語形成の中で文字によって登録されなかったがゆえに、日本語の中に合流することができずに、そのまま消え去ったり、あるいは方言として細々と生き延びている真に古代倭的な言葉もあろうが、基本的には中国語の宇宙と和語の宇宙の二つの焦点をもつ楕円体宇宙であると同時に、両者が主(詞)従(辞)関係で結ばれるという、不可思議な構造の日本語が生れた。一方に仮名で書かれた『古事記』があり、他方に漢文で書かれた『日本書紀』があるという形に象徴される日本文学の分裂構造は、一方に和歌があり、他方に漢詩があるという形で、基層としては江戸期、いや現在に至るまで引き継がれている。

(同)

思うにこの日本語の二重性こそ、“日本だけが”非欧米圏でいちはやく欧米的近代化を遂げることができた秘密でもある。

日本人は圧倒的に進んだ中華帝国様との二千年とかの長きにわたるお付き合いを通して、言語を二重化させることで、いわば中国語的にものを考えたり表現したりすることと、日本語的にものを考えたり表現したりすることの、両方を臨機応変に使い分けることが可能であるような“方法”をコツコツと開発し、ついには確立した。政治とか法制度とか思想・哲学のような概念には漢語をそのまま流用し、日常的な衣食住に関わるような場面では大和言葉の語彙が多用されるので、“漢字で喋ってる”ような言葉遣いは、かしこまった、ヨソ行きの、非日常的な響きを持ってしまうが、それはそれでかしこまった場面では成立するし必要な言葉遣いとしてごく普通に存在する、れっきとした“日本語”である。日本人なら誰でも、時にそのような言葉遣いができるが、日常生活においては大和言葉中心の“易しい”日本語で喋っているし、もの思いにふけっている。

近代になって、未知の新たな先進国として欧米諸国が眼前に立ち現れたとき、日本人は、中華帝国様とのお付き合いの中で発展させ洗練させたこの“方法”を、ただ応用すればよかった。欧米的な概念を自由に操れるようになるためには、まずその者の内面がすっかり欧米化されてしまわなければならないし、国民の一定数がそのように内面から変質して初めて欧米的近代化もまた可能になるものだが、日本人は、使い慣れた難解な漢語の位置に、片仮名で表記することにした欧米語を代入することで、内面はすっかりもとの日本人のままなのに、ヨソ行きの欧米文化を臨機応変に身にまとうことは朝飯前に子供でもできるので、“日本人らしさ”を失わないまま、少なくとも“なんちゃって近代化”ぐらい簡単に成し遂げることができたのだ。

私はそういう“日本”が、まあ時には「本当は未開の土人のくせに」と苛立つこともありつつ、ケナゲで面白くて好きである。が、その愛すべき“日本”は、複雑きわまりない日本語の産物である。日本人の日本語能力が衰退すれば、そのような“日本”は失われてしまう。主観的には“愛国者”のつもりでいるらしいネトウヨどもの日本語リテラシーの貧弱さを見よ。

もちろんネトウヨだけではない。日本人の大半が、すでに日本語をちゃんと使いこなせなくなっている。はっきり云って、「ネットのせいだ」と私は思っている。

ネット以前は、日本語の読み書きの能力が一定以上の水準に達している者しか、自分の考えや意見を公にすることはできなかった。バカは黙っているしかなかったのである。かつてだってバカはインテリたちの書き散らす言葉に内心反発していたとは思うが、それらは書き記されて公になる機会がなかったので、政治家も学者もマスコミも、そんなものを気に留める必要も、まして汲み上げる必要もなかった。

ところがネットが出現して、バカを甘やかした。バカがバカのくせにバカだからバカな“意見”を書き散らせるようになり、バカどもはバカな“意見”を持っているのは自分だけではなかったのだと気づいて増長し、ウェブ上でゆるく団結し、もともと人間社会なんてバカのほうが圧倒的に多いわけで、IT革命で突然降って湧いたようなバカどもの大合唱にインテリたちは慌てふためき、インテリ業界を挙げてなんとかバカのレベルに合わせようとしているうちに元インテリたちもバカになっていった。

もはや高偏差値大学の学生にも、箇条書きならまだ上等で、ポエムみたいな“文章”しか書けない者が増えていると聞く。小学校から英語とか教えてる場合ではない。英語とかどーでもいいから国語教育を徹底しなきゃ日本人の劣等民族化は止まらない。むしろ小学校から漢文を教えて日本語の“二重言語”性に対する感性(と中華帝国様への感謝の気持ち)を養った方がずっといい。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫) もっとも、云うまでもなくこの近年の嘆かわしい展開は“民主化”である。その原始的な段階においてすでにオルテガが“大衆の反逆”と呼んで恐怖した事態の完成である。何の知的研鑽も積もうともせず自堕落に“動物的な生”を営む圧倒的多数の“庶民”が、数の力でインテリどもによる少数支配の諸世紀を終わらせる。何云ってんのかよく分からないけどムカつくしウザいしキモいインテリどもがほしいままにしていたペンの暴力に、ペンなんか握ったことないような無学な大衆が、“キーボードの暴力”で(スマホだとキーボードもついてないか)勝利する“暴力革命”である。インテリだってもう大半はバカなので民主主義イデオロギーを疑ってみることなど思いもよらず、事態を正確に把握して「IT反革命」を叫び公然と「反民主主義」を掲げているのは、どうやら我々ファシストだけである。

 

 Featured Image by Markus Pe