なぜ私が全国各地の「飲み歩き」活動を始めたのか


この3、4年、“飲み歩き”にイソシんでいる。もちろん私的な娯楽として飲み歩いているのではなく、革命的な活動の一環として飲み歩いているのである。

地元福岡のみならず九州各地、どころか全国各地をさんざん飲み歩いて、面白い場所や人をかなり探し当てていると思う。いずれ何らかの形で成果を誇りたいのだが、私の“ファン”たちには一定数、かなりこじれた人というか、困った人というか、マズい人というか、まあなんだそういう人が混じっていることを私自身よく分かっているので、例えば「○○県○○市にこういう面白い飲み屋があって……」と書いたとして、「そうか、じゃあ行ってみよう」とそういう人が押しかけてしまうとその店に迷惑がかかりそうで、なかなか書けずにいるのである。

いっそ「某県某市の店A」などと、地名や店名をボカした隔靴掻痒な“全国面白飲み屋ガイド”にしてしまうか、とも考えた。

とにかくこの件に関しては、“ネタ”は大量に貯まってはいるのである。せっかく始めたこの“web版『人民の敵』”に書くネタもそうそうなく、しかし飲み歩きエピソードのストックは大量にあるわけで、ここはもう書ける範囲でどんどん書いていこう。

 

そもそも私が“飲み歩き”を始めたのには明確なきっかけがある。

2011年の3月から翌2012年の1月まで、私は友人が福岡市内で始めた「BARラジカル」のカウンターに、人寄せパンダ的な雇われ店長として、オープンから10ヶ月間ほぼ毎日立ち続けた。それなりに有意義な経験ではあったが、同時にものすごいストレスも感じていた。私は10代後半から、基本的な足場は福岡に置きながらとはいえ、年がら年じゅう全国各地をウロウロしてきたのだが、当然のことながらその10ヶ月間はほとんど福岡を離れることができなかった。元来あちこちウロウロしていたい私にとって、それは獄中にいた2年間に近いような日々でもあった。

雇われ店長は最低10ヶ月から長くて1年というのが真の店長との当初からの合意で、とくに半年が過ぎたあたりからは、“お役御免”の日がきたらここぞとばかりにホーボーをウロウロしてやるぞとウズウズしていた。

で、例の「劇団どくんご」のその2012年の全国ツアーに連動させる感じで、私自身も“全国ツアー”を計画した。全国で10数都市を選び、とくにその地で「どくんご」の公演がおこなわれる場合にはその1週間ほど前に“外山恒一を囲んで飲む会”を開催して、もちろん私自身の活動のネットワークを形成しつつ、参加者に「近々こーゆー素晴らしい劇団が来るから是非足を運ぶよーに」と“「どくんご」の手先”としての任務も兼ねる、というものだ。

“飲む会”は主にtwitterで参加者を募った。「何月何日何時、何々駅改札付近集合」などと呼びかけ、当日集まった面々と「和民」的な安い居酒屋に入って2、3時間飲む、という方式にしたが、東京や関西でならともかく、もっと本格的な?地方都市ではこれはあまり上手くいかず、フタを開けてみると1人しか来ないとか、誰も来ないという地域もあったほどだ。

が、本題は“飲み歩き”を始めた経緯である。

 

きっかけは2つあって、1つは富山市での経験だ。富山でも“飲む会”を開催し、なかなか優秀な高校生を含む3名の参加をみたが、これは飲み歩きの開始とは関係がない。

実はこの数年前から、いつか富山に行く機会があれば必ずやりたいと考えていたことがあった。

41rzrthfa5l-_sl500_bo1204203200_-gif 私がまだ駆け出しの“反管理教育”の活動家だった89年のことである。私の単行本デビュー作『ぼくの高校退学宣言』を読んで手紙をくれた富山市の女子高生が、その中にかの地で発行されているという『へそ』なるミニコミ誌を同封してくれていた。おそらく富山大の学生か何かが中心になって作っているのだろう社会派なミニコミで、当時盛り上がっていた原発問題などについて熱く特集していたりした。その時はざっと斜め読みして、各地に自分と似たようなことをやってる若者はいるんだな、と月並みな感想を持っただけである。

が、やがて私の関心が、とくに80年代後半を中心とする若者の社会運動史の発掘・記録に向くにつれ、『へそ』の存在が繰り返し思い出されるようになった。リアルタイムでは知り合わないままに終わったわけだが、きっと80年代後半に富山に熱い社会派の若者たちのシーンがあったに違いなく、それがどのようなものであったか、富山に行くことがあれば関係者を探し出して証言を求めたい、という気持ちが次第に強くなっていった。

だからこの2012年夏にほとんど初めて富山を訪れたのは、“飲む会”はむしろついでで、このほぼ四半世紀前の謎のミニコミ誌について調査することをこそ真の目的としていた。そして同時に私が心に決めていたのは、ネット登場のはるか以前の出来事について調査する時に、ネットには一切頼るまいということだった。“飲む会”後の数日を富山滞在に充て、私はとにかく“足を使う”ことにこだわって『へそ』の消息を求めた。

%e3%81%b8%e3%81%9d 私の手元にある『へそ』は創刊号で、「88年夏号」と奥付にある。第2号以降も刊行が続いたのかどうかも分からない。手がかりはその創刊号の「編集後記」の隣にある“取り扱い店舗一覧”に列挙されているうち“富山大・生協”などを除いた3つの喫茶店や雑貨屋らしき店である。住所を頼りに訪ねてみると、1つはすでに撤退しており看板の跡だけが残っていた。他の2つは跡形もなかった。

そこで今度は、富山市の繁華街をひたすら散策した。飲み屋や喫茶店の看板や宣伝文句を片っ端からチェックし、うっすらとでも反体制的な匂い、せめてカウンターカルチャーあるいはロックっぽい匂いのする店の名前をメモった。ひととおり散策を終えたところで少しぐらいネットにも頼ってしまおうと、メモった店名を検索してみると、うち1つがどうやら富山の若い反原発派の拠点となっているらしい気配があった。当然、その“D”を訪ねて、「この冊子に見覚えはありませんか?」と訊いてマスターの反応を窺った。まるで刑事か探偵だ。

Dのマスターは『へそ』についても、その執筆陣に名を連ねている人たちについても、何も心当たりはないとのことだった。その代わり、「富山の反原発派がたまり場にしているような飲み屋なら他にありますよ」と“U”という店を教えてくれた。Uに行ってみると、たしかに本格的な反体制派の拠点、といった趣きの飲み屋だった。しかしUのマスターも若く、四半世紀前のミニコミについては何も知らないようだった。

デルクイ02: 左右混淆反体制マガジン
結果だけ云うと、『へそ』の中心人物に最終的には辿り着くことができた。その顛末およびその元富山大ノンセクト活動家・野上明人氏へのインタビューは、私が編集した『デルクイ』という雑誌状書籍の第2号(彩流社・2013年)に載っている。

私が“飲み歩き”を始めたきっかけ、という本稿のテーマに戻れば、その1つは、この『へそ』探訪の過程で富山市内のDおよびUという店を探し当て、もちろん双方のマスターとそれなりに長時間さまざまに社会派っぽい話題で歓談し、お近づきになれたという体験である。探そうと思えばこんなふうにして“(私にとって)面白い場所”を探すことは可能なのだと気がついたのだ。

もう1つのきっかけは、これに前後しての隣県でのすなわち“外山恒一を囲んで飲む会in新潟”である。

新潟での“飲む会”には10名ほど集まって盛り上がり、盛り上がったついでに参加者の1人が「二次会に行きましょうよ」と云い始めた。「いいけど、こっちは新潟にはまったく土地鑑ないよ。どこかいい店を知ってる?」と訊くと、「絶対にオススメの店があります!」と自信満々の答えが返ってきた。それでみんなでついて行った。

連れて行かれた先が、これは店名を書いてもいいと思うが、新潟駅近くにある「大衆酒場ソクラテス」である。「あそこです!」と少し離れたところから指差されて、看板が目に入った瞬間に大笑いした。ここまで分かりやすく“ヘンな店アピール”をしている店名なら、1人でたまたま通りかかって見つけたとしても思わず入ってしまいそうだ。

店名に違わず素晴らしく楽しい店で、すっかり堪能し、翌年には“外山恒一トークライブ”まで主催してもらった。

実は富山での『へそ』探訪は、その緒についた段階で新潟での“飲む会”への移動のためにいったん切り上げ、「大衆酒場ソクラテス」の洗礼を受けた上で富山にとんぼ帰りし、前記のDやUに行き着いた、という順序になる。

私は何か新しい鉱脈を探り当てた気がした。この“北陸方式”をもっと徹底的に追求すれば、まったく縁のない土地に次々と自分の活動の足がかりを築いていけるのではないかと思った。

私の“飲み歩き”活動は、こうして始まったのである。