外山恒一の「コミュ力」論 ・・・まず何よりも相手が云わんとしていることを“誤読”しない能力であって、こっちがペラペラ喋る力ではない


2012年の夏に、“全国ツアー”と称し、2ヶ月間ほどかけて日本各地を回った、という話はすでに少し書いた。その際に富山で四半世紀前のミニコミ誌の関係者を探し出そうと、反原発運動の関係者など社会派っぽい人たちが出入りしてそうな飲み屋をいくつか訪ねたのと、新潟でちょっとしたきっかけで「大衆酒場ソクラテス」なんて店名の面白バーに出会ったのとで、そういう場所を各地で意識的に探して関係を作っていけば、私の活動を全国化させることができるのではないか、と思い始めたという話も。

その続きを書こうと思ったのだが、その前に、そもそも的な問題がある。私は実際その後、それこそ全国各地をテッテー的に飲み歩き、私なりの“飲み屋ネットワーク”を形成してきている。もちろん失敗することも時々あるとはいえ、たいていは、初めて訪ねた飲み屋でフツー飲み屋ではタブーとされているという“政治の話”をマスターやたまたまカウンターに隣り合わせた先客らとガンガンやって、たぶん社交辞令的にではなく歓迎され、私自身や「劇団どくんご」のビラを預かってもらったり、「○○という店にも行くといいよ」と他にオススメの飲み屋を新たに紹介してもらったり、“外山恒一トークライブ”の会場として使わせてもらったり、といった成果を上げている。

しかしそういうことは、どうもかなり特殊な能力のようなのである。どういう能力なんだろうと考えてみるに、例えばかつて“大陸浪人”というのがいて、その中には満州なら満州のどこかの街を対象に、その地の政治情勢を探る一種の“スパイ”、あるいはさらに踏み込んでその地で探知した政治的動向に自らも関与する“工作員”的な役割を務めたりする者もあったろうが、私がやってきたことはそういうのに近いような気がしている。事前情報ゼロでどこかの街に夕方到着して、通りを散策して私なりの嗅覚に反応した飲み屋にとりあえず入ってみて、深夜にはその地の最ディープ・スポットであるに違いない飲み屋をまんまと探し当て、マスターと盛り上がっているというケースも珍しくない。世が世なら超優秀なスパイ、工作員としてこのくだらない国に貢献してしまっていたかもしれないと恐ろしくなったり、いやあの時代に私がいれば戦争に負けることもなかったのではないかと悔しい気持ちになったりする。

私はどこでそういう能力を身につけたのだろう。

初めて入った店で“政治的な話”をして面白がってもらう、というのに私の知名度はそんなに関係していないはずである。そもそも私はそんなに有名ではなく、マスターらも私のことは知らなかったという場合の方が多いのだ。

例えば単に“面白い飲み屋の探し方”ならある程度はマニュアル化して提示できるし、今後の“飲み歩き報告”シリーズをそういうものとして読むこともできるだろう。しかし、そういう店を見つけたからといって、マスターや先客に積極的に話しかけ、私がこれまで上げてきたような成果を誰もが上げられるようでもなさそうなのである。むしろ“うっとーしい客”として店の迷惑になってしまう場合の方が多いんじゃないかと危惧し、それで私もなかなか「○○市に○○という店があって……」と実名を挙げて紹介しにくいのである。九州各地にも大量の面白スポットを発見したが、我が九州ファシスト党の同志たちでさえ、それらに私の代わりに入り浸ってもらうことは難しく、結局は私自身が年に1回ペースでも足を運んで関係を維持せざるを得ない。

要はある種の“コミュ力”なしには務まらない役目なのだが、しかしそれは一体どういう“コミュ力”なんだろうかと、時々ふと考え込んでしまうのである。

まずもって私がとことんマジメな“活動家”として20数年来の研鑽を積んできたことはもちろんである。政治運動というのは結局は“仲間を集める”、“賛同者を募る”ということであるから、そのためのスキルを身につける努力は当然やってきたとは思う。幕末や60年代などと違って、同世代の圧倒的多数は“政治的無関心”という状況での四半世紀の試行錯誤だから、それは“マジメなことをなるべく面白く話す”という方向での努力になる。

さらには、私の試行錯誤が主に九州でおこなわれてきたというのも重要な点だと思う。首都圏の連中はお気楽で結構ですな、と常に感じさせられる。首都圏ではどんなに特殊な志向で“同好の士”を求めても簡単にそれなりの規模で仲間が集まってしまう。京都もそうかもしれない。しかし首都圏と京都以外では、一定の枠をはみ出すと圧倒的な孤立が待っている。そういう環境で私は世界水準のラジカリズムを掲げて踏ん張ってきたのである。逆にだからこそタコツボの中でしか通用しない語り口に陥らず、普遍的な世界水準のラジカリズムを確立しえたのだとさえ思う。

とはいえ一時期、とくにラジカル道を突っ走り始めた当初は大変だった。20代前半、90年代前半の5年間がとりわけキビしかった。周囲との問題意識の隔絶に押しつぶされ、ある種の失語症のような状態に陥っていたし、生硬な語り口で自らの立場を頑なに守り抜こうとして、敵も大量に作った。要は今で云うヘサヨを敵に回したのであってそれは当時の私の圧倒的な正しさを証明するものであるとはいえ、そのせいでやがて2年間も投獄されたようなものである。

軸足は九州に置きながらも、18歳以来ずっと頻繁に東京との往復を続けていた。私なりの最前線の問題意識を直球でぶつけることのできる東京の友人知人と、年に2回ぐらいは2、3週間東京に滞在して議論し、あるいはその時期その時期に首都圏に登場したラジカリズムの新しい動向に触れて刺激を受け、それらの成果を胸に、また九州に戻って試行錯誤を続けるというような生活だった。そんな中で95年にまず「だめ連」と出会ったことが私にとって大きな転機となった。

「だめ連」は首都圏にあって珍しく、細かなジャンルごとに成立していた各タコツボを横断し、“交流圏”と称する数百人規模の社会派ネットワークを築いていた。とくにリーダー格の神長恒一、ペペ長谷川の両氏による“トーク”の技術には目を見はるものがあった。おおよそ問題意識を共有してなどいなさそうな相手と強引に対話を成立させ、しかもその内容がいちいち面白いのだ。両氏が確立した“だめ連口調”には伝染性があり、初めて出会って以来1ヶ月ほどつきまとって“交流”を満喫しているうちに、私も完全に“だめ連口調”で“トーク”するようになった。

九州に戻るとさっそく“だめ連路線”をまんまコピーして“交流圏”の確立に奔走し、量的な成果はやがて達せられたが、それは、90年代初頭の時点で突出しまくっていた私自身のラジカルな問題意識を“だめ連口調”で糊塗することによって得られた成果でしかなかったように今は思う。

とりあえず形だけ身につけた“初対面の相手と何となく会話を成立させる”語り口に、私の本来の問題意識を乗せて、両者を整合させることができたのは、ようやく2007年の例の東京都知事選をやり抜く過程でのことだった。

まず都知事選に出ることを考え始めた2006年夏の時点で、協力者を求めてそれまで以上に頻繁に上京するようになった。97年か98年の時点でとうに知り合っていた「法政大学の貧乏くささを守る会」の総帥・松本哉氏が前年に高円寺を拠点に始めた「素人の乱」の運動が、ちょうど盛り上がり始めていた時期である。「素人の乱」の中心メンバー数名が、高円寺のマイナーな商店街のあちこちに、松本氏自身のリサイクルショップをはじめ、古着屋や飲み屋を「素人の乱」という店名だけ共有してそれぞれ「何号店」と称して運営していた。飲み屋である「素人の乱9号店・セピア」が、界隈の人々が夜な夜な群れ集う社交場となっていた。

私もセピアに足しげく通ったが、最初はなかなか受け入れてもらえなかった。店主のN氏がそもそもノンポリで、友人関係の成り行きでたまたま「素人の乱」の主要な一員と化してはいたものの、松本氏を慕って寄ってくる左翼活動家たちとはソリが合わず、私もそのスジの人間と見なされ、しかも今やファシストなんぞ自称している上に刑務所帰りときているものだから、ものすごく敬遠されていたのである。私も長年、九州で孤独な闘いを続けてきた人間だから、“空気を読む”力は発達していて、どうも歓迎されていないらしいことはよく分かっちゃいたが、都知事選に向けて「素人の乱」界隈に知己を増やさなければならぬと意気込んでいたから、それでもあえて連日のようにセピアに通い続けた。

ある時、N氏が早めに店じまいして数名の常連客とカラオケに行くという流れになった。N氏が内心は迷惑がっているのを承知で私も強引についていった。結果として、中島みゆき信者の常連客K氏と急速に親しくなった。以来、セピアでK氏と顔を合わせるたびにディープに話し込み、その内容がN氏にも面白かったようで、おかげでやっとやはり急速に受け入れてもらえるようになった。

そもそも私はN氏の接客の上手さに感心しており、N氏が私を敬遠していた時期もカウンターの片隅でおとなしくしつつN氏の接客の様子をずっと観察していた。N氏が私にもかまってくれるようになると、そりゃあ「素人の乱」なのでN氏も他の常連客と政治向きの話題に巻き込まれる場合も多々あり、そういう時に助け舟を求められる場面も増えた。私はそのテの話題を“分かりやすく面白く”話す訓練をひたすら九州で積まされてきたようなものだから、充分に務めを果たせたと思うし、またそういうことが繰り返される中で技術にさらに磨きをかけることができたとも思う。

やがて都知事選の本番がやってきた。例の政見放送ばかりが取り沙汰されたが、私の選挙運動のメインは政見放送ではなく、選挙期間中に毎晩、高円寺駅南口広場で開催していた支持者や野次馬たちとの“対話集会”である。選挙戦3日目ぐらいに政見放送がオンエアされる以前や、オンエア以後もしばらくは数人やせいぜい十数人との歓談だったが、やがて連日百人以上の群衆に囲まれるようになった。終盤には2、3百人にまで膨れ上がった。人だかりのあちこちから、マジメな質問から興味本位のくだらない質問、時には批判的な意見、挑発的な意見がひっきりなしに飛んでくる。その1つ1つに、なるべく短く、かつ的確に面白く、回答して捌いていかなければならない。いわば“千本ノック”状態である。それを毎晩4、5時間。

私はとてもそんなことができるような人間ではなかった。1対1とか数名での歓談なら別だが、何十人何百人を前に喋るというようなことは大の苦手で、稀にそういう状況に立たされると必ず大失敗してきた。ところがこの都知事選の時には我ながら完璧にやりきったのである。自らの意志で始めた選挙戦で、何とかしなければならない立場に追い込まれていたためでもある。しかしこれに先立つ数ヶ月間、連日連夜セピアで鍛えられていたおかげでもあると思う。

きっかけを作ってくれた、そして“反外山派”も多い「素人の乱」界隈で数少ないディープな理解者の1人だったK氏は、悔しいことに一昨年、自ら命を絶ってしまった。

ともかく都知事選以来、私は初対面の相手と自らの問題意識を全開にして歓談することはもちろん、大勢の人の前で喋ることもまったく苦にならなくなった。

さらに2011年3月から翌2012年1月までの丸10ヶ月間、私は福岡で友人がオープンした「BARラジカル」のカウンターに、人寄せパンダ的な“雇われ店長”としてほぼ毎日立った。今度は私がセピアのマスターN氏の立場で、入れ替わり立ち替わりやってくるさまざまな人々に接しなければならなかったわけで、これまた私にとって重要な修行の場となった。

何事も訓練であって、ここ数年の私が駆使している“スパイ”的、“工作員”的なスキルの獲得にも、このようにそれなりの経緯というものがある。「オレ、“コミュ力”ないっスから」とか云う奴にたまに遭遇するが、努力しろよと思う。あるいは、他人とコミュニケーションするためのモチベーションが低いんじゃないか、と。

ただ1つだけ付け加えるとすれば、“国語力”は必要だという気がする。“現国”的な学力というか、“現代文読解”の能力である。“コミュ力”というのは、まず何よりも相手が云わんとしていることを“誤読”しない能力であって、こっちがペラペラ喋る力ではないのである。私は昔から現国の成績だけは何も勉強しなくても極端に良かった。同意するにしても反論するにしても単に相槌を打つにしても、相手が話している趣旨さえ誤読しなければ、言葉少なに一言二言を挟むだけでも相手を疲れさせないし、逆にどれほど立て板に水でペラペラ喋りまくろうと、相手の話と噛み合っていなければ相手をウンザリさせるだけである。