「公有地闘争」と土人たちの形式的民主主義 -外山恒一の「民主主義」ってなんだ?


私が主に現地工作員を務めている「劇団どくんご」福岡公演は、福岡市教育委員会の後援を受けている。

……と聞くとなんかリッパそうだが、一口に後援と云ってもほんとの(?)後援と形ばかりの後援とがあって、前者は財政的な支援や優遇が伴うもの、後者はそんなの伴わない単なる名義貸し的な、例えばチラシなんかに「後援・福岡市教育委員会」と記載してもいいですよぐらいのものだ。そしてもちろん(?)「どくんご」の場合は後者である。この“形ばかりの”後援の場合、審査めいたものも無いに等しく、要は書類を揃えて申請さえ出せばまず右から左に通る。

じゃあどうしてそんな無意味な後援を申請するかというと、もちろんリッパっぽい権威づけをするためではない。

そもそもは市の公園を借りるためだった。「どくんご」は野外テント劇団であり、全国約40ヶ所の公演地でそれぞれ、どこかせめて10数メートル四方以上の平地を確保しなければならない。もちろん無許可でやると、土人国家だし公有地でも処罰されかねず、ちゃんと事前に許可をとることになる。寺や神社、さらにはまったくの私有地を借りている公演地もあるが、福岡公演の場合は市の公園を借りているし、劇団側も“なるべく公有地で”を基本方針としている。

日本のアングラ・テント演劇史の初期の代表的な劇団の1つである「黒テント」が提唱したさまざまな理念の1つに“公有地闘争”というものがあり、呼んで字のごとく、公共の土地でのテント演劇公演を目指すことで、“闘争”というのは要するに、実際には役所はそんなことになかなか土地を使わせたがらないので、闘って勝ちとらなければならないということである。この土人国家では、公共の土地つまり“誰のものでもない土地”は、“だからとくに迷惑にならない限り誰でも自由にさまざまなことに使ってよい土地”ではなく、“だから誰も使ってはならない土地”であるかに見なされており、土人どものこのいかにも土人的な“公共”感覚を打破することが、“運動の演劇”、“闘争の演劇”を掲げた「黒テント」の目標の1つとなっていたのである。

「どくんご」もこの「黒テント」の主張に共鳴し、“公有地闘争”的な問題意識は、芝居の内容からは何らの政治性も感じさせない「どくんご」の、ほとんど唯一と云ってもよい強力な政治性となっている。まあもっとも脱力前衛劇団のことであるから、公有地の獲得は“なるべく”というユルさではあるのだが、私としても“なるべく”劇団側の意向には沿いたいので、私が土地の確保の交渉を担っている福岡をはじめ九州内のいくつかの公演地では、市との交渉を最優先し、実際に今のところすべて勝利している。

私が福岡公演の中心的な現地スタッフとなったのは、「どくんご」が福岡にも毎ツアー来るようになってから3年目の2011年のことで、もちろん市との交渉も私がやらなければならなかったし、案の定、市はなかなか公園を貸そうとはしなかったのだが、交渉が難航することを事前に予想していた私は、いざ市役所の公園課に出向く前に、さまざまな“武器”を仕込んでおくことにした。話が遠回りしたが、本題の「教育委員会の後援」も実はそれら“武器”の1つだったのである。いろいろ策を練る中でふと思いつき、教育委員会に問い合わせてみると、どうやら申請さえ出せばほとんど自動的に“形ばかりの後援”なら得られそうだったので、申請してまんまと後援をとりつけた。使用許可をなかなか出さない公園課にしつこく食い下がる時に、「市の教育委員会が後援している企画に市の公園を貸せないというんでは、行政として整合性がとれないでしょう」的なヘリクツも使えると思ったわけだが、実際少しは使えた。

そもそもはそれだけの話だった。しかし実際に後援をとりつけてみると、これには意外なメリットが他にもあることが分かってきた。福岡市内の他の公共施設、例えば市立図書館とか「福岡市女性センター」だのとかに「チラシを置かせてほしいんですけど」と行くと、窓口の人はチラシを一瞥して例の文言を目ざとく見つけ、「あ、教育委員会の後援がありますね。じゃあ置きましょう」となるのである。ということは逆に、あえて説明は不要かもしれないが、県の施設とか、フツーに福岡市への通勤・通学圏である近隣の例えば春日市や太宰府市の施設とかに行ってもチラシは置いてもらえない。まさに“お役所仕事”的な杓子定規の対応で、ほとほとウンザリさせられる。「この土人が!」という差別的罵倒は本来このような場面で使用すべきものだということも分からないような土人がさすが掃いて捨てるほどいる国の役所である。

でまあ、仕方なく毎年、教育委員会に後援申請を出して土人の風習に従い続けてきたのだが、今年になって突然、教育委員会は、昨年まで何も云ってなかった“芝居の内容を説明する文書”の提出を要求してきた。「なんでまた突然?」と訊いてみても、「今年からそうなったんです」の一点張りである。むしろ昨年まで内容も確かめずにポンポン申請を通していたことの方がそもそも問題っちゃあ問題ではあるかもしれないが、法律や条例の改変があったわけでもないのに申請要件を役所が恣意的に変更することの方がずっと問題であるから、本当は闘わなきゃいけないところ、申請は昨年までと同様にスンナリ通るものと思って「後援・福岡市教育委員会」の文言が入ったチラシはすでに刷り上がっていて、公演当日までもうあまり期間もないし、不本意ながら「『どくんご』の芝居は前衛なんで“内容”とかありません。では“内容のない芝居”とはどのような内容の芝居かというと……」的な難解な文章を書いて提出した。

公演当日までには申請は通るだろう。市の施設にチラシを置いて回る時間的余裕はなくなるが、そもそも置けるから置いてるだけで効果のほどは今ひとつ疑問だし、行きつけの飲み屋とかには「この『後援』ってのは役所の横暴を原因とする手違いなんでそこんとこよろしく」と云い添えて置いて回っているし、「教育委員会の後援がある」ことも公園の使用許可を出すエクスキュースの1つにしている公園課も公演当日までにその形式を整えれば文句は云うまい。

唐突に「民主主義」について考える。

市の施設の窓口の役人があるチラシを置くか置かないかの判断基準を、例えば「市教育委員会」の後援がついてるかどうかなどの純形式的な側面にのみ求めるというのは、「この野暮ちんが!」とか云いたくはなるけれども、実は民主主義国家の行政としては仕方がないと云えば仕方がない。民主主義とは形式的な正義であって内容的な正義ではないからだ。

あるいは、内容的な正義を排することこそが民主主義の正義である。それぞれがそれぞれの価値観を主張し合うのはかまわないが、そのどれもが意見として対等なものであって、どうしても何かを決めなければならない場合は多数決で決めるとしても、多数意見だからそれが普遍的正義であるということではないのは前提である。そして諸個人がそれぞれにさまざまな意見や主張を持つのは自由だが、公共機関や役人は公務においてそれらに対しニュートラルでなければならない。

となれば当然、市の施設に「このチラシを置いてください」と誰かがやってきた時に、窓口の役人としては、その内容について検討して、「これは置いてもいいです」「これは置けませんね」とかの判断をしてはならない。置いてほしいと云われたものは何でも置くか、逆にすべて断るかの2つに1つである。とはいえ何でも置くことにするとキリがないし、一切置かないのもいかがなものかということで、では内容以外の基準を設けようということになる。教育委員会をはじめ他の行政機関のお墨付きのあるチラシだけ置きましょう、というのはそれはそれで1つの合理的な基準ではあるのだ。

では今度は教育委員会である。今回、教育委員会は後援申請に際して「内容」を問うてきたわけだが、これは本来は民主主義国家の役所としてやってはならないことである。そんなことを云ったって例えば何らかの政治的主張を強く打ち出した芝居を後援するわけにはいかないだろう、と云う人もあるかもしれないが、そんなのは土人の発想である。民主主義国家においては、公共機関が特定の政治的主張に肩入れしてはならないが、諸個人がどんな極端な政治的見解を抱いてもかまわないし、それを主張することも自由だし、逆に公共機関がそれを妨げるようなこともあってはならないのである。教育委員会もやはり、本当は「内容」を問うたり、ましてそれを後援するかどうか決めるに際しての判断基準にしてはならない。

が、そうなるとこれまた申請されたものは何でも後援しなきゃいけなくなり、あるいはまた何らかの純形式的な要件を課すことになって、それは「何でもアリ」をどこかで食い止める役目を単に公共機関のまた別の部署へとたらい回しすることでしかなく、結局いつまでも話が堂々巡りになってしまう。

「内容」を問うてその是非を審議する、という民主主義国家の役所が決してやってはならないことを、例えば今回のケースだと、仕方なく教育委員会が引き受けるわけだが、民主主義とはまた巧くできたもので、こういう民主主義に反する行為も最終的には民主的に正当化されてしまうのである。仮に私が「役所のくせに『内容』とか審査すんな」と騒ぎ立てたところで、そこらへんの土人どもが「んなこと云ったって“イスラム国万歳!”みてえな芝居を後援するわけにはいかねえべ」「んだ、んだ」とか、あるいは主催が例えばオウム真理教や山口組とかであってもそれをもって役所がさまざまの申請の取り扱いに差を設けてはならないはずだが、やはり土人どもは土人なので「チューカク派に市の施設を貸せるわけねえべ」「んだ、んだ」、と土人レベルの浅知恵を得意げに開陳し合い、土人どもに選ばれた土人議員どもも、何やかんやで結局は土人どもに迂遠な方法で選ばれている土人裁判官どもも、圧倒的大多数が役所の反民主的な行為を問題にしないから、つまり民主主義の多数決によってそれは結局まかり通ってしまうのである。

これが我が理想のファシズム独裁政権下であれば、我がファシスト党が「この者の判断力を信用する」と太鼓判を押した優秀な人々が公共機関の要所要所に配置されていて、そいつがいいと云えばいい、ダメだと云えばダメ、文句があるならその判断がファシズムの正義に反することをそいつか党組織に説得的に説明しろ、というだけの話である。べつにファシズムに限らず、共産主義であれイスラム原理主義であれ儒教的徳治主義であれ他の何主義であれ、形式ではなく内容が公認の正義として掲げられている社会であればそういうことになる。

民主主義とはつくづく欺瞞的で醜悪なもので、正義に反することが(時には民主主義の正義に反することでさえも)民主的にまかり通ってしまう。まともな人間が見れば明らかに差別的で侮蔑的な文脈で「土人」とか「支那人」という言葉が使われていた場合でも、それが差別や侮蔑であるかは土人どもが多数決で決める。

 

 

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