我々の世代には“活動家”が多い ・・・青いムーブメントとドブネズミ世代の政治史(2)


前回からつづく

 

そう、我々の世代には“活動家”が多いのである。

41o9r7rnyml-_sl500_bo1204203200_-gif“青いムーブメント”にリアルタイムで感応した層を最も広くとればおそらくブルーハーツの(かなり熱心な)ファンたちということになる。あるいは当時の私の同志の1人は、“たけし軍団”に熱烈に思い入れた若者たちを含めてもいいのではないかと云っている(そういえば浅草キッドの水道橋博士は私の93年の著作『さよならブルーハーツ』をその後かなり長いこと繰り返し絶賛していた)。もちろん“ブルーハーツ”や“たけし軍団”は象徴的に代表させて挙げているだけで、他の固有名詞を(音楽で云えば例えば“タイマーズ”とか“たま”とか“エコーズ”とか“ストリート・スライダーズ”とか“筋肉少女帯”とか、あるいは“ニューエストモデル”つまり私は大嫌いな現在のソウルフラワーユニオンごときの前身をさえ)代入してもかまわない。80年代後半に、単に「トレイントレイン」とかを当時のヒット曲の1つとして「いいなあ」とかぼんやり思ってたぐらいのタイプは除いて、ある程度は“熱狂的に”、ブルーハーツに限らずそれら“ブルーハーツ的”な諸々に思い入れていた人間は、たぶん私の同世代の中に1割ぐらいはいる。

そういう“裾野”があって、その端っこよりちょっと内側の人々は例えば自分でバンドを組んで熱くシャウトしたりしてただろう。さらに内側の人々は、政治的な運動にも参加していた。

なにせ“土井社会党ブーム”の時代である。まさに“85年”に始まった「ニュース・ステーション」は、後継の「報道ステーション」ごときは足元にも及ばないほどの“左翼偏向”プロパガンダ放送だったし、87年に始まった「朝まで生テレビ」もやはり現在のそれとは比べものにならないほど“熱い”討論番組だった。“3・11以降”に量的には少し及ばないにしても、それでも数万人規模のしかも質的には“3・11以降”のそれより数段過激かつ全国的(“3・11以降”のそれは首都圏で盛り上がっていただけである)な反原発運動が88年には高揚した。学校現場では中高生の反乱が散発的にではあるが連鎖して起き、それらを背景に例えば『ぼくらの七日間戦争』が書かれ、全共闘世代の村上龍が当時の中高生向けに『69』を書き、今では忘れられているがビッグコミック・スピリッツには『ジパング少年』というアツい“反管理教育”マンガが連載されていた。

“ブルーハーツ的”な“青”臭い世代感性の延長線上で政治的・社会的な諸運動に身を投じた者は当時それなりの数がいて、その中でも最も先鋭化し、突出してみせたのが例えば私であったりするのだが、さすがに私レベルにまでなると同世代の中でも極少数派である。ただ、全国的に糾合してもせいぜい百人単位の規模だったろう私たち極左派も、ブルーハーツやたけし軍団の“熱狂的な”ファン(というより“支持者”もしくは“シンパ”)たちを最大枠とする、数十万人規模の大きな同心円構造の単に円心部分にいたにすぎない。

だからこそ、この世代には“活動家”が多い。

当時リアルタイムで具体的に足を踏み入れたかどうかはともかく(前記のとおり、具体的には踏み入れないままに終わった者が多い)、“政治的・社会的なことでアツくなる”ことに対して敷居の低い空気を、思春期から20歳前後の多感な時期に意識的にせよ無意識的にせよ世代的に経験している。同世代の中でも、私のように10代のうちに“活動家デビュー”した者は総じてラジカルであり、30代40代になってからの“遅咲き”組はリベラルだったりあるいは“右傾”していたりするが、おそらく活動家層の量的な厚みとしては、全共闘世代のあと先細る一方だったのが突如として盛り返す“第2の団塊”の如くである。

「90年を中心とする前後10年間」であるから、「90年」を「20歳」で通過した人々を中心に前後5年間、つまり1965年から1975年に生まれた者をこの世代に括るとして、そりゃもちろんまず誰よりも筆頭にまさにちょうど70年生まれの外山恒一がキツリツしているのだが、他に“有名な”活動家をいくらでも挙げられる。

先に(活躍が早すぎたために現在ではむしろ)マイナーな人を挙げると、まさに「90年」に“青いムーブメント”の渦中でその最左派中の最左派部分を担った「反天皇制全国個人共闘〈秋の嵐〉」のリーダー・見津毅は67年生まれで、95年に若くしてバイク事故で死去したが、生きていれば今頃は日本を代表する極左活動家となっていたかもしれない(真の極左は“日本”なんか代表しないという無粋なツッコミはナシで)。「秋の嵐」に結集した中には他にも例えば、私にとって“ファシスト”の自称をいち早く始めた先輩でもある佐藤悟志(65年生まれ)がおり、90年代にちょっとブレイクしかけた“社会派エロマンガ家”の山本夜羽音(66年生まれ)がいた。私の“反管理教育”運動時代の同志の1人で現在は最大の宿敵である“共産主義者”の矢部史郎も当然、私と同世代で71年の生まれだ。

90年代末に一世を風靡した(“ひな壇”ではあるが「TVタックル」にもたびたび出演していた)「だめ連」のペペ長谷川(66年生まれ)と神長恒一(67年生まれ)も我々“ドブネズミ”世代の活動家である。もとは早大の学生運動だった「だめ連」の近傍に早くからおり、今では極左派の代表的な知識人の1人である酒井隆史も65年生まれだ。

さらに高円寺「素人の乱」“総帥”の松本哉(75年生まれ)がそうである。“プレカリアートの女神”雨宮処凛(75年生まれ)がそうである。2000年代末にちょっと高揚した“フリーター労働運動”の中心にいた、“ヘサヨ”の代名詞的存在でもある山口素明も66年生まれ(フリーター労組のもう1人の中心だった鈴木剛も68年生まれ)。「日雇い派遣村」の“村長”として一躍脚光を浴びた湯浅誠も69年生まれである。

“3・11以降”の主要な活動家たちもそうだ。「首都圏反原発連合」のミサオ・レッドウルフが何歳なのかプロフィール非公表なので分からないが、99%この枠に収まるだろうと思う。反原連から反ヘイトスピーチの“しばき隊”に移行した野間易通は66年生まれ。やはりその界隈から出て今や『日本会議の研究』で大ベストセラー作家となった菅野完が74年生まれ、『サッカーと愛国』の清義明が67年生まれである。

みーんな同世代。80年代末以降、私を皮切りに(?)いろんな“活動家”が連綿と登場しては世間の注目を集め、その時期ごとに一番オモテに出て目立っている顔ぶれこそ違え、実は同じ“ドブネズミ世代”が入れ替わり立ち替わりしているだけなのだ。ちなみに在特会の桜井誠も、72年生まれで同世代である。

もっと若くて(かつ“活動家”然とした)目立つ活動家と云えば、左は一時期やはり“ヘサヨ”の代表格の1人だった園良太(81年生まれ)と、逆に右には“在特会よりヒドい”確信犯的レイシズム団体「排害社」の活動で(悪)名を高めた金友隆幸(85年生まれ)ぐらいしか思いつかない。今ふと「もしかして」と思い慌てて調べてみた「ろくでなし子」も、やはりというか意外にもというか全然“新世代”ではなく72年生まれだった。

もちろん奥田愛基(92年生まれ)をはじめシールズの諸君は若いが、私はシールズは“こういう若者たちに登場してほしかった”リベラル・メディアが針小棒大に報道してデッチ上げた、高揚の実体を伴わないインチキな現象だと思っているのでここでは措いておく(あと某“ブラック”NPOの存在も理由は書かないが見て見ぬフリをしておく)。

念のために云い添えておくと、私は運動シーンの“第2の団塊世代”と化した感のある我々の世代を誇っているのではなく、逆にゲンナリしているのである。“若い世代”は相変わらずスポイルされきったままだ。もちろん我々自身が若かった80年代後半・90年代前半には当時の我々“若い世代”は突如としてアツかったのだが、その後はその同じ世代がアツいままスライドしていってるだけなのである。“しばき隊”とネトウヨが互いに相手の素姓をネット上で盛んに暴き合っているが、たまに“身バレ”した人のプロフィールを見ると、“しばき隊”もネトウヨもやっぱり我々の世代か、もしくはもっと上であることがほとんどで、もはや私は若者たちに絶望しつつある。

 

と、あまりにも長いマクラである。 80年代後半の“高揚”とは具体的にどのようなものであったか、それは巧著(せっちょ)『青いムーブメント』を読めば(尻切れトンボなので中途半端な時点のことまでは)分かるので詳細は省く。

51sjju3f7wl-_sx347_bo1204203200_同書で私は、80年代前半の“軽薄短小”ないくつかの政治運動が“青いムーブメント”の源流である、とした。具体的には、一種の“ポップな反戦運動”だったピースボートや、“反管理教育”運動の火付け役・牽引役となった青生舎などである。前者の創設者・辻元清美も、後者の創設者・保坂展人も、共にやがて80年代半ば以降は土井たか子を支える若きブレーンとなり、次第に“議会政治の世界の人”に身を落として現在に至る。

それら80年代前半の“ポップな政治運動”は、本来ならあと5年早く、つまり70年代後半のうちに登場して、同時代のポストモダン思想やサブカルチャーの運動と三位一体で展開すべきものであった、ということも『青いムーブメント』で論じた。

政治と文化と思想の運動は本来は三つ巴で影響を与え合いながら展開するもので、実際、“68年革命”までは日本のそれと同じサイクルで展開し、いわば同期していた欧米の諸運動は、「80年を中心とする前後10年間」にそれらが三つ巴となった高揚を経験して、そこから生じた“緑の党”や“マルチチュード”云々の諸運動の系譜は現在まで途切れていない。ところが日本では70年代後半に思想と文化の運動だけが高揚し、それらと連動すべき政治領域の“新しい”運動の登場が5年ほど遅れてしまったために(その原因は云うまでもなく、80年前後まで続く“内ゲバの常態化”という、西側先進国では日本の政治運動領域にのみ生じた特殊で異様な事態である)、両者は分断された。

思想や文化の運動と切断されたところから始まった80年代前半の“ポップな政治運動”は、ノリだけは軽くフットワークは良かったが、思想運動と切れているため知性に欠け、文化運動と切れているためにセンスに欠けて、したがって他方で、本来はそれと連動して切磋琢磨し合うべき思想や文化の運動の担い手たちの側は、政治運動そのものをバカにした挙げ句の果てに度しがたい政治オンチになっていった、というのが80年代半ばに起きた事態、“外山史観”用語で云うところの「85年の断絶」である。その深い傷は現在に至るも修復されず、東浩紀や野間易通を見れば一目瞭然なように思想や文化の圏域から出てきた連中はヒドい政治オンチであり続けている。知性とセンスに圧倒的に欠けていること(ひたすら“元気なバカ”であること)が80年代半ばから90年代半ばにかけてはその絶対的な参入資格だった政治運動の出身者のうち、やがて努力を積んで知性とセンスを獲得したのはほとんど私だけ、センスだけは獲得したのがせいぜい松本哉だけ(まあもともと松本は活動家デビュー当初から非凡な笑いのセンスに恵まれていたが)、というキビシー状況である。

 

……という話もマクラである。

「80年を中心とする前後10年間」の諸運動は、思想と文化の領域ではその形容のとおり“70年代後半から80年代前半”のサイクルで勃興し高揚し停滞し後退し終息したが、政治の領域でそれに該当する諸運動は“80年代前半から80年代後半”という5年遅れのサイクルで推移し、日本の諸運動が政治・文化・思想の全領域において現在もダメダメであり続けている根源的な原因はこの時の“5年のズレ”の存在、そしてその存在が今なおまったく認識すらされていないことにある、というのが『青いムーブメント』で提示した私の説である。

が、“外山史観”も少しずつ進歩する。

 

 

つづく