80年代後半の“青い”若者たちの邂逅、そして90年代へ ・・・青いムーブメントとドブネズミ世代の政治史(3)


前回からつづく

 

が、“外山史観”も少しずつ進歩する。

現在では、思想領域の“80年前後”の運動は“70年代後半から80年代前半”のサイクル、政治領域のそれは“80年代前半から80年代後半”のサイクルで推移したが、文化領域には、その両方に並走する運動がそれぞれ存在したのではないかと考えている。音楽で云えば、前者の“70年代後半から80年代前半”のサイクルで思想領域の運動に並走した文化運動の代表的な担い手がYMO、後者の“80年代前半から80年代後半”の政治領域の運動に並走した文化運動の代表的な担い手が尾崎豊ということになる。

そして、『青いムーブメント』では、“80年代後半から90年代前半”のサイクルで勃興し高揚し停滞し後退し終息した“青いムーブメント”は、その勃興期において、“80年”をピークとする波に乗り遅れて登場し85年ごろにピークを迎える、実は本来は10コ上の世代の政治運動であるピースボートや青生舎に触発される形で登場したと叙述し、つまり両者を曖昧に連続させたが、やはり“(本来は)80年前後”のピースポートや青生舎と“90年前後”の我々ドブネズミ世代の諸運動とは、尾崎豊とブルーハーツが全然違うものであるように、はっきりと区分けすべき互いに異質なものであると今では考えている。

ただこういう、“80年”の文化や思想の運動から切断されて知性もセンスも欠落していたがために、“80年”的な“反政治”(というか“反正義”)のテーマを理解しえず、ただただ無邪気で能天気で素朴で明るい政治性・社会性をひとえにその内なる“元気印”(たぶん保坂展人が云い出して当時の知的・センス的に貧しい政治運動領域で盛んに流通していた恥ずかしすぎる流行語)の無根拠なパワーにのみ依拠してムリヤリ創出し、“90年”世代つまり我々ドブネズミ世代にそれを橋渡しする役目を果たしたのが、例えば保坂展人であり辻元清美であり、YMOがまだギリギリ“散開”していなかった“クール”なサブカルチャー運動の最末期に突如として、“高校をドロップアウトして熱いメッセージをシャウトする反抗的なティーンのロックシンガー”などという時代とズレまくった、当時としてはおそらく異様で意味不明な“芸風”でデビューした尾崎豊であったと思うのだ。

そういう人は他にもいろいろいて、例えば“新右翼”一水会の鈴木邦男もその1人だった。“80年”の思想と文化の諸運動のキーパーソンたちをカタログ的に並べてみせて、知的エスタブリッシュメントの側に回収してトドメを刺した、筑紫哲也による『朝日ジャーナル』誌上での有名なインタビュー連載「若者たちの神々」に、鈴木邦男は、当時の政治運動領域から唯一お呼びがかかっているほどの、80年代半ばの“ポップな政治運動”を代表する活動家の1人である。

 

やっと本題に入る。

『人民の敵』で半年おきに“時事放談”をやる相手である藤村修氏は、思春期の頃から自覚的な右翼であったらしい。

反原発や“反管理教育”に走る場合が多かった私たち“政治的ドブネズミ”たちの大半は、したがって濃淡はあれ自然と左傾していたものだ。鈴木邦男は原発にも反対を表明していたし、“例外的に良い右翼”というイメージを私たちも抱いてはいるのが普通だったが、それでも同世代の政治的ドブネズミたちのうちピースボートや保坂系“反管理教育”運動ではなく鈴木邦男の一水会に流れるのは、かなりヒネクレた、“素直でない”タイプが多かったような気がする。本音ではブルーハーツ的な青臭い諸表現につい感動してしまいそうになりつつ、あえて背を向けて、「ケッ!」とか頑張ってこれ見よがしに舌打ちしてみせようとするような……。

しかしそういうタイプも要は虚勢を張っていただけでしょせんは同類なので、私たち政治的ドブネズミの主流派が保坂展人らの引力圏に吸い寄せられたのと同じメカニズムで当時は鈴木邦男に吸い寄せられた反主流派の面々とも、やがてどこかで出会って意気投合してしまったりする。藤村氏の他には、やはり藤村氏と同じく、私が編集してこれまでに2号刊行した雑誌『デルクイ』に寄稿してもらっている、69年生まれの大石規雄氏も、若い頃はまず一水会へと走り、やがて93年ごろに私の行動圏内にもチラチラと姿の見え始めた1人である(そういえば3・11以降の“右からの反原発運動”を主導している針谷大輔氏も65年生まれだ)。

70年生まれで完全に同い年の藤村氏と初めて会ったのもやはり93年か94年のことだと思う。

福岡に海鳥社という出版社があり、その編集者の1人が急に妙にポストモダン思想づいて、80年代後半以降その方面の概説書(『現代思想の冒険』87年・ちくま学芸文庫など)を書きまくっていた竹田青嗣にやたらと心酔し、90年代初頭にはとうに全国区の“啓蒙思想家(?)”の地位を確立していた竹田の著作がローカル出版社である海鳥社から『はじめての現象学』(93年)を皮切りに何冊も出て、また海鳥社の主催で半年おきに福岡で“竹田青嗣講演会”が開催されるようになっていた。

保坂展人や辻元清美や尾崎豊や鈴木邦男のような媒介的先行者たちとは別に、違う形で80年代後半の“青い”若者たちに並走して強い影響を与えた年長者たちも存在し、派手なところでは覆面バンド“タイマーズ”でドブネズミたちを熱狂させた忌野清志郎、『69』を書いた村上龍、マンガ『迷走王ボーダー』の原作を担当した狩撫麻礼などが挙げられるが、地味なところでは竹田青嗣ら“『オルガン』派”や、あるいは『別冊宝島』に拠った浅羽通明ら“呉智英門下”の一群の思想家たちがいる。

“青いムーブメント”が“89年革命”のピークをすぎ停滞期・後退期へと突入した90年代初頭、政治的ドブネズミたちの一部は自らの知性の欠如に遅ればせながら気づいて愕然とし、慌ててポストモダン思想などを“お勉強”し始めるのだが、その知的水準に見合ったホド良い啓蒙書を次々と提供してくれていたのが一方で竹田らであり、他方で浅羽らであった(そうした若者たちに突如として数多く出会ってしまうことになったのだろう浅羽は、80年代後半が熱い“政治の季節”だったことに気づき、また繰り返しそのことを活字にして記録に残してきた、私以外ではほとんど唯一の存在である)。バカを自覚して反省してもバカが急に直るわけでもなく、柄谷行人や浅田彰まして蓮實重彦といったポストモダン主流派の難解な著作は、私たちドブネズミふぜいにはとうてい歯が立たなかったのだ。

竹田青嗣らは、85年から90年というまさに“青いムーブメント”の高揚期とピッタリ重なる5年間に毎日新聞社が何周回か遅れで刊行していた、ポストモダン思想の啓蒙書「知における冒険」シリーズの書き手として私たちドブネズミ派の前に登場した。前述の『現代思想の冒険』はそのシリーズの中の1冊である。シリーズの著者たちは同時にまた思想誌『オルガン』の同人たちとほぼ重なっており、同誌の刊行もまた“86年から91年まで”だったりする。

『オルガン』派の思想家たちは総じて全共闘運動の体験者たちであり、かつ長じて“反マルクス”に転じた一派で、“政治”そのものを嫌悪する方向へと走った竹田青嗣、橋爪大三郎、加藤典洋といった“右派”たちと、マルクスに拠らない革命思想を引き続き模索・追求した笠井潔、小阪修平といった“左派”たちとの分岐をはらみつつ、両派とも共に吉本隆明の強い影響下にあり、親マルクス派でかつ反吉本派であった柄谷・蓮實・浅田らポストモダン主流派とは88年ごろから対立が顕在化して、いわば“ポストモダン反主流派”を形成していた。今コレを書きながら今さら気づいて驚いたのだが、まだ自らのバカを思い知って本格的な“お勉強”に入る以前の政治的ドブネズミたちにせめてもの“思想的一夜漬け”の便利なツールとして重宝され、そのカラフルな背表紙が多くのドブネズミ仲間たちの本棚の一角に並んでいた懐かしい光景について『青いムーブメント』でも言及した“フォー・ビギナーズ”シリーズと、雑誌『オルガン』の版元は共に現代書館である(もっとも実はべつに驚くほどのことではなく、“フォー・ビギナーズ”シリーズ初期の主要ラインナップの1冊である80年刊行の『マルクス』の翻訳者は小阪修平であり、81年刊行の『毛沢東』の翻訳者は笠井潔の早逝した盟友・戸田徹である)。

 

つづく