3・11以後の運動と『オルガン』派の親和性、そしてドブネズミ・エリートのその後 -青いムーブメントとドブネズミ世代(4)


前回からつづく

 

私は91年以降、主に笠井潔の強い思想的影響下に入ったが、もちろん竹田青嗣ら“右派”にも同じ『オルガン』派ということでそれなりの関心と共感を抱いており、海鳥社の主催で地元・福岡で半年おきに繰り返し開催された“竹田青嗣講演会”にも足しげく通うようになった。

講演会の終了後には毎回“懇親会”が催されて、初参加時に私は「竹田さんのそこそこ熱心な読者でもありながら、今もしつこく極左の道を追求しています」と自己紹介し、大いに胸を痛めたらしい竹田氏にその場で「そんなことは私を倒してから云え」的に食ってかかられて、長い議論の末に「私が常々批判しているようなタイプの“左翼”でないことは理解した」との“お赦し”を得て、以後数年間、竹田氏との交流が続いたりもするのだが、この文章の冒頭から実はずっと本題である藤村修氏とも、この“竹田青嗣講演会”後の“懇親会”の席で参加者どうしとして初めて出会った。

自らのバカは棚に上げて右翼の無知無学ぶりをバカにしていた私は、「右翼にも竹田青嗣を愛読するようなインテリがいたとは!」と驚き、藤村氏も藤村氏で「反発を感じさせない左翼に初めて出会った」とのちに述懐してくれるとおり驚いたらしいのだが、以来たびたび会い、当時はもちろん私はファシズム転向のはるか以前の“異端的極左活動家”で、敬虔な天皇主義の右翼である藤村氏とは立場を真逆にしながらも、それでいて当時からすでになぜか藤村氏は私にとって“地元・福岡の同世代で最も話の合う友人”となり、その後さらに“地元・福岡の”という限定も抜けて現在に至る。

同じ政治的ドブネズミでありながら“鈴木邦男経由”という反主流の右翼であり、尾崎豊には心酔しつつもブルーハーツには長らく反感を抱いていたという藤村氏と話していると、しかしやはり強烈に同世代性を再確認させられる。ドブネズミ世代の政治経験・文化経験・思想経験について、「そうそう!」と痒いところに手が届くような、そして「云われてみればたしかにそうだ!」と膝を打つような発言が、藤村氏の口からはポンポン飛び出す。

野間易通の、『オルガン』左派・笠井潔との共著『3.11後の叛乱 反原連・しばき隊・SEALDs』を、『オルガン』右派の加藤典洋がいち早く高く評価していた、というエピソードから始まって展開される、藤村氏による“『オルガン』派と3・11以後の諸運動との親和性”に関する議論は、『人民の敵』第27号の最大の読みどころである(あと、私にとっては“デタラメな世代論・歴史観を流布する極悪人”で、生物学的にしか同世代性を認め得ず、例えるなら“60年代末を共産党民青の活動家として通過したような奴”である東浩紀が、そりゃまあたしかに決裂し破綻しつつもやはり03年・集英社新書からの笠井潔との共著『動物化する世界の中で 全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評』も存在するが、それ以上に加藤典洋ら『オルガン』右派との間により強い親和性を持ち合わせているのではないか、という藤村氏の指摘にも私は蒙を啓かれる思いをした)。

『人民の敵』最新・第27号のもう1つのコンテンツ、「劇団どくんご」の今年の全国ツアー終盤・九州4公演地での“終演後の打ち上げ”の様子を実況的にテープ起こしする過程でも、私はドブネズミ世代の諸経験に関する新たな知見を得た気がする。

 

「どくんご」もまた、80年代末の“青いムーブメント”のピークを担った諸集団の1つだったのではないかという疑い(?)そのものは、すでに何年も前から感じ始めてはいた。

「どくんご」は、83年に埼玉大学の演劇部を解消・再編する形で旗揚げし、88年に最初のテント旅公演を敢行、2000年代半ば以降は、本格的な旅公演を頻繁におこなう“現存する唯一の”テント劇団となっている。

テント芝居のシーンと“新左翼ノンセクト”的な政治運動シーンとは、もともとほとんど一体であると云ってよいほど密接に関係しており、私も88年時点で最初のテント芝居体験をして以来、そのシーンの近傍にずっと身を置き続けてはいる。したがって「どくんご」の名前もかなり早くから耳にしてはいたのだが、諸事情あって「どくんご」が長らく(2009年まで!)福岡での公演を避けてきたこともあって、私が実際に初めて「どくんご」のテントに足を運び、まんまと衝撃を受けたのは遅きに失して2001年のことである。

80年代の10年間がほぼ丸々そのままアングラ・テント芝居の“第2のピーク”となっている事実には、『青いムーブメント』でも言及した。このことは演劇シーンにおいてすらほとんど知られておらず(というより単に自覚されておらず、そう指摘すれば合点する者も一定いる程度には個々の事実そのものは記憶されている)、世間に広く流布する演劇史ひいては文化史ひいては“80年代史”を歪めている。

常識的な演劇史において大きく記述が割かれるのは、唐十郎や寺山修司や黒テントといった“70年前後”のアングラ・テント芝居の“第1次”ムーブメントのみで、80年代の第2次ムーブメントは小さくさえ扱われない。しかし実際には、『青いムーブメント』に書いたとおり、80年代初頭に1つの劇団から割れて誕生した「風の旅団」をはじめ3つの極左系アングラ・テント劇団が、90年代初頭まで毎年のようにそれぞれ全国各地を盛んに巡業し、したがってもしかすると“第1次”ムーブメントのピークである70年代初頭以上に、80年代にはたくさんのテント芝居が日常的にあちこちで上演されていたのである。この端的な事実が少しも知られていないために、例えば「風の旅団」をモデルとした佐川光晴の小説『極東アングラ正伝』(03年・『虹を追いかける男』と改題の上で双葉文庫)についてかつて目にした小さな書評では、「65年生まれの著者にとって、描かれているアングラ演劇ブームは実体験ではなかろうが」的な見当違いが述べられていたりした(ちなみにこの小説の読後だいぶ経ってから知らされて私は驚愕したのだが、佐川光晴の妻は「どくんご」の初期の劇団員であるらしい)……とこれは脱線エピソード。

『青いムーブメント』ではこの80年代のテント芝居・第2次ムーブメントも「90年を中心とする前後10年間」の“青いムーブメント”の一翼を担ったかに記述したのだが、“外山史観”のその後の進歩によってこの見解は多少修正されている。それらを尾崎豊と同列に並べるのは失礼な気もするが(どっちに!?)、つまり「風の旅団」ら3劇団を担った年長者たちの存在は、85年ごろの“青いムーブメント”の始動に際して保坂展人・辻元清美・鈴木邦男らと同様の役割を文化運動領域で果たした、尾崎とはまた別の例なのではないかと現在の私は考えている。それら3劇団に触発されて、“70年前後生まれ”のドブネズミたちの中からも、そのいずれかに身を投じたり(2010年に「このミステリーがすごい!」大賞を受賞して現在は作家として活躍している、71年生まれの乾緑郎もそうした1人だ)、「どくんご」のように自ら新しくテント劇団を旗揚げする動きがあちこちで起きたのだろうことは、『青いムーブメント』執筆の時点でも見当がついていた。

“青いムーブメント”の最左派部分を担った例えば私のようないわば“ドブネズミ・エリート”たちは、私の場合であれば保坂展人の、つまりムーブメントの始動を促す役割を果たした年長者たちの諸運動について、もちろんそれらからの強い影響を充分に自覚しつつ、同時にそれらへの強烈な違和感(ざっくり云えば、それらがたいていの場合は70年代以降の新左翼運動を正統に継承していることから必然的に身にまとう、完全には“ポップ”になりきれない倫理的な窮屈さや正義っぽさ、リキみへの反発だろう)を抱き、シンパシーや影響のみならず反感や違和感のほうも直視しながら、自らが進むべき方向を模索してきた。テント芝居の世界に飛び込んだトブネズミたちの間でもそのような模索はおこなわれたに違いなく、やがて何らかの方向性を見いだして確立し、現在まで生き延びている稀有な例として「どくんご」は存在する、というようなことも私はかつて書いたことがある。

「どくんご」の実質的な創設者であり、現在も演出を担当する伊能夏生(ちょっと年長で、61年生まれである)は、自身の埼玉大の学生時代について、同大の学生運動の「“端っこのほう”にいた」と語ることがある。私はこれまでそれを真に受けて、そりゃあ当然ながら彼らの軸足は演劇活動にあり、世間に流布する間違ったイメージとは異なって80年代半ばごろまでは全国たいていの主要大学にはそれなりの規模でフツーに存続していた全共闘直系の新左翼ノンセクト学生運動はもちろん「どくんご」結成前後の埼玉大にも存在しただろうが、それを担っていたのは「どくんご」の面々とは別の人々で、伊能自身が云うように、伊能らはその“端っこのほう”に連なっていた程度なのだろう、と思い込んでいた。

ちなみに80年代後半の“青いムーブメント”の高揚期において、新左翼ノンセクト学生運動は傍流である(その担い手だった者たちのうち今なお非転向を貫いている連中が、いわゆる“ヘサヨ”である)。“ドブネズミ・エリート”たちの中で、80年代末の高揚期への突入時点ですでに大学生だった相対的年長派の面々は大学を飛び出し、多くの場合は最終的には大学を中退し、相対的年少派でまだ中高生だった面々は(私もそうだが)高校を中退したり、そもそも高校へ進学しなかったり、かなりの高偏差値校を卒業しながら大学は受験さえしなかったりして、そのせいでますます知性の圏域からは遠ざかってしまうことになりつつ、電力会社前の路上(反原発運動)や原宿ホコ天(反天皇制運動の「秋の嵐」)といった場所を自らの活動の主要舞台とした。そもそも“反管理教育”もまた政治的ドブネズミたちの共通の問題意識であり、80年代後半の最もラジカルな諸運動は、前の世代の新左翼学生運動とは異なり学校空間の“外”で主に展開されたのである。

ただし、“エリート”たちの一部で“我らの世代の唐牛健太郎(60年安保闘争の、早逝した伝説的指導者)”とも称される「秋の嵐」のリーダー・見津毅をはじめ、相対的年長派の多くはその活動歴の初期にはやはりごくフツーに(とはいえ“元気でバカ”ゆえの無手勝流の問題児っぷりを発揮したりしつつ)大学の“中”での新左翼ノンセクトの運動を体験している。そのまま学内の運動にとどまった多数派の“非エリート”たちも、単なる“ブルーハーツ等の熱烈なファン”を最大枠とする“青いムーブメント”全体の中ではむしろ相対的に我々“エリート”に近い層をなし、だからこそ私も歴史研究の重要な一環として80年代のノンセクト学生運動史の掘り起こしをずっと続けている。

%e4%ba%ba%e6%b0%91%e3%81%ae%e6%95%b527で、『人民の敵』第27号にその“実況”を載せた、ごく先日の「どくんご」の“終演後の打ち上げ”での会話の中で新たに判明した衝撃の事実についてである。

約7ヶ月間におよぶ今期ツアーの中盤に、「どくんご」のテントに“ほとんど20年ぶり”に観客として姿を現して以来、千秋楽まで各地の公演に私以上にしょっちゅう出没するようになったT氏は、埼玉大学における伊能の“4つ年上で1学年上”の先輩であり、一時期からは伊能と連日のように飲んでは熱く語り合う関係となって、そもそも埼大演劇部の「どくんご」への改編も、このT氏が伊能にけしかけたものであるらしい。もちろん「どくんご」創立メンバーの1人であり、しかし生活上の問題で、最初のテント旅公演を敢行する前後の時期に、つまり最初期の5年間ほど在籍しただけでT氏は「どくんご」を退団したということだ。

T氏が云うには、80年代の(もちろんそれ以前からであろうが)埼玉大では「むつめ祭」つまり学園祭の実行委員会に“全共闘以来の”流れを汲む新左翼ノンセクト活動家らが蝟集しており、T氏自身もその一員であったという。ところが「どくんご」結成の前後にあたる時期、「むつめ祭」実行委員会の活動の建前があくまで“学園祭の運営”にあることなどから来る限界を打破するために、それとは別枠で、最も活動に積極的な部分が結集して「全学井戸端会議」なる集団が結成され、大学当局や民青やとくに原理研との果敢な抗争を繰り広げたらしい。そして私が驚愕したのは、T氏によれば、そもそもその「全学井戸端会議」の立ち上げを主導したのもまたT氏自身である上に、「全学井戸端会議」のメンバーは演劇部員つまり前後して「どくんご」を旗揚げする面々と“ほぼ重なっていた”というのである。

どこが“端っこのほう”だ。中枢も中枢、実質のちに「どくんご」を旗揚げする面々こそが埼大ノンセクトのメイン・ストリームを担っていたということではないか!

おそらく伊能の“謙遜(?)”は、自分たちは中核派だの戦旗派だのその他ナントカ派だのに属する党派活動家ら“本職”の連中とは別個の存在で、非“本職”、運動のド素人として好き勝手に無責任に騒ぐ有象無象のノンセクト“雑派”であったにすぎないよ、という自己認識を正直に吐露したものにすぎないのだろう。しかし60年代末の全共闘以降、新左翼運動においては党派活動家たちのほうが実は傍流で、やがてコジャレて「マルチチュード」などと称されることになる“有象無象”のノンセクト活動家たちこそがメイン・ストリームを形成していたのであることは、何も私が改めて云うほどのことでもない端的な事実である。

さらによく考えてみれば「どくんご」を旗揚げした当時は現役の埼玉大生であった彼らは、やがてまさに“青いムーブメント”のピークにあたる80年代末、本格的なテント旅公演を志向してやはり“学外”へと飛び出し、もちろんT氏や伊能を含む大半のメンバーはそのまま埼玉大を中退してしまうのである。

何だよ。

やはり同じように2006年にやっと指導者の中川文人(64年生まれ)と知り合って初めて詳細(具体的には私が中川にインタビューした記録である『ポスト学生運動史』(彩流社・10年)を参照のこと)を聞くに及んで驚愕した、すでに“ヘサヨ”化への道を歩み始めていた首都圏の新左翼ノンセクト学生運動の主流とは一貫してほぼ切れた状態で展開した結果として、それら“学内”にとどまった90年前後のノンセクト学生運動総体をもともと軽視していた私の視野にもなかなか入ってこなかった「中核派の学内恐怖支配体制を打倒した89年の法大黒ヘル」と同様、“正史”の書き手である私がその存在を視野に入れるのが遅れ、その後も長らく歴史的にどう位置づけるべきか苦慮し続けていた「劇団どくんご」の活動もまた、単に私がリアルタイムで気づいていなかっただけで、“青いムーブメント”の最左派あるいは最尖端部分を形成した“ドブネズミ・エリート”たちの典型的実践の1つだったのである。

そもそもは、『人民の敵』第27号の編集をとおして私はまた改めて藤村修氏や「劇団どくんご」に世代的な共感を強く抱いた、という話を書きたかっただけなのだが、我ながらアホかと思うぐらい異様な長文になってしまった。単にその程度のことを述べたいだけなのに、“正史”が広く認識されていないために前提をイチから説明しなければならないハメに、いつも陥ってしまう。