80年代学生運動史の研究(1) -法政大学黒ヘル


2003年に獄中でファシズム転向した。

ファシストが獄中でやることと云えば“自伝の執筆”だろうと(ヒトラー先輩の有名な『我が闘争』については云うまでもなく、ムソリーニ先輩も獄中で自伝を書いたらしい)、さっそくファシズム転向に至るまでの我が苦闘の歩みを、反抗的だったので“懲罰”として筆記用具その他を取り上げられた状況下で、隠し持ったシャーペンの芯をじかに握り、隠し持った便箋の切れ端に書き記し始めた。が、書き進めるうちにそれは自伝というより、私自身が担ったものを含む80年代の若者たちの諸運動全般を網羅的に時系列で記述する“通史”のようなものになった。結局、獄中では書き終わらず、出所後さらに書き継いだがなかなか完成せず、かなり重要なことを書いている自信はあるのだが書き終わるのはいつになるか分からないと思って、とりあえず89年いっぱいの出来事まで書き進めた時点で、未完のまま“第1部”のつもりで、2008年に『青いムーブメント』(彩流社)として単行本化した。

思えばそれが始まりで、私は“運動史の研究”にのめり込んでいった。『青いムーブメント』は、自分の活動歴(やそれに関連する世間の出来事)についてはたいてい即座に年号つきで説明できるほど自分史の大家である私が、そもそも獄中で書き始めたんだし充分に史料にも当たれず、ほとんど記憶だけに基づいて書いたものなんだが、もちろんそれでは不完全な偏った研究になってしまう。私が当時、直接には見聞できなかった諸々の動きについても改めて調べてみたくなり、なるべく積極的に機会を作って、いろんな人にその人自身の活動体験を根掘り葉掘り訊いて回るようになった。

『青いムーブメント』で詳述した諸運動というのは、80年代後半に、学生を含む若者たちが、しかし主に大学以外の場所で展開したものである。具体的には、電力会社前などの路上を主要舞台とした反原発運動、原宿ホコ天でおこなわれた「秋の嵐」という若者グループの反天皇制運動、それぞれに学校当局と日々闘っていた高校生たちがヒッチハイクで全国を盛んに行き来して互いに結びつこうとした反管理教育運動などだ。要するにいわゆる“ドブネズミ系”の諸運動の第一波であり、当時は、60年代末の全共闘以来の系譜に連なる正統派の“ノンセクト・ラジカル”の学生運動もまだ完全には壊滅しておらず、我々ドブネズミ系は、それらからの影響も大いに蒙りつつ、同時に反発もして、独自の新しい潮流を生み出そうとしていたのだと今では振り返ることができる。

このドブネズミ系の諸運動の勃興期に、メンタリティとしてはドブネズミ寄りでありながら、しかし既成の学内ノンセクト・ラジカルの諸運動から完全には離脱するには至らなかった同世代が、既成のノンセクト・ラジカルの単なる劣化コピーであることにとどまった後のいわゆる“ヘサヨ”勢とは別個に、それなりの量として存在するのではないか、ということをいつしか感じ始めてもいた。例えばそういう層からやがて90年代半ばには「だめ連」が登場してきたりするのである。そしてそれら80年代後半に未だ大学内にとどまっていた、いわば“準ドブネズミ系”の諸運動については、もちろん私はリアルタイムではまったく接点がなく、ほとんど知らない。改めて調べてみるしかないのである。

 

とまあ、おおよそそういう脈絡で、“主に80年代の”学生運動史にガゼン興味が湧いたわけだ。

世間では、学生運動なんてせいぜい70年代いっぱいの話で、80年代の学生たちといえば無気力無関心、“80年代的相対主義”が蔓延し、シラケでバブルでオタクでサブカルで、学生運動なんか影も形もなくなっていたかのように思われているが、それが嘘であることには私はだいぶ前から気づいていた。島田雅彦の小説『優しいサヨクのための嬉遊曲』を読んでも、大森一樹の映画『ヒポクラテスたち』を観ても、少なくとも80年前後の大学生たちはフツーに学生運動をやっている様子である。どちらも大ヒットした小説・映画であり、そこで“同時代”のそれとして描かれた大学状況に当時の世間はとくに違和感を持たなかったわけだから、その後なぜか世間の記憶のほうが歪曲されてしまったに違いないのだ。

80年前後の段階でそれなりの量的規模を維持していたらしい学生運動が、その後すぐにいきなり消えてなくなるわけもない。私が直接知っている90年頃にはそうした運動はまさに消滅寸前だったが、80年代の少なくとも前半期あたりまでは、全国のたいていの大学には数十人から多いところでは百名二百名規模で活動家がいるような、つまり学生運動をやるような学生は決して多くはないが極めて珍しいというほどでもない状況が続いていたのではないか、と私は怪しんでいたのである。それを全国で何十万人という学生が暴れていた異様な高揚期である60年代末と比べるから、“80年代には学生運動は影も形もなくなってしまった”という印象になり、そのあくまで相対的な印象として語られたにすぎない形容を、まったく事実そのままを云ったものであるかのように歪曲した記憶が世間に定着してしまっただけではないのか、と。

当事者たちへのインタビューを繰り返す中で、私のこの予測はほぼ当たっていたことがすでに明らかになりつつあるのだが、とにかく“80年代の学生運動史”に関しては当事者にあたる以外にない。テレビや新聞はもちろん左翼系のマイナーなメディアに至るまでとうにことごとくアンテナが錆びつき、しかも“ネット以前”でもある、とくに80年代半ばから90年代半ばにかけての若者たちの政治運動・社会運動については、ほとんど史料が残っていないのである。

 

私が最初にその体験を“聞き取り調査”した相手は、80年代末から90年代初頭にかけて法政大の“黒ヘル”つまりノンセクトを率いた中川文人氏である。

これはかなりたまたまで、2007年の都知事選への出馬を念頭に九州から頻繁に東京へ出張っていた06年の後半に、東京進出に際して主に足がかりにしていた高円寺「素人の乱」の界隈で、同“総帥”の松本哉君の“先輩”だという中川氏と知り合った。中川氏は自身の活動歴について、なぜか私に会うたびに滔々と語りたがり、当時は実はまだ私は、我々ドブネズミ派が路上で大暴れしていた80年代末に学内にとどまっていた層の運動については、すべて引っくるめて大いにバカにしていたので、鬱陶しいなあと正直内心思っていたのだが、我慢して聞いているうちに「あれ? 意外と面白いぞ」と折伏され始めた。

というのも、80年代末の学内ノンセクトというのは、この06年当時にはまだ「ヘサヨ」という言葉はなかったが、要はそういうものにすぎないと私は見なしていたのに、中川氏の語るそれは、我々“純ドブネズミ派”の諸運動に近いノリやセンスを持っていたかに感じられたのである。つまり既成の新左翼運動への共感と反感、そして自らの新しい運動を創出していくに際しての主要な選択がリーダー格の(法大の場合であれば中川氏らの)“個人芸”の力量に依拠する“面白路線”であること、参照先があまりないために若気の至り尽くせりで八方破れに暴走するケがあり、同世代のそれを含めた従来のノンセクト・ラジカル路線に安住する連中(中川氏らの場合は、首都圏の複数の大学のノンセクト間の連絡組織)とは合わず、キワモノ視されて、したがって当事者たち以外の範囲にその実情が伝わりにくい条件下にどうも置かれがちなこと、などなどである。

都知事選後の騒ぎも一段落した09年、私は中川氏に改めて本格的なインタビューをおこない、それをテープ起こししてネットに上げたところ好評で、これもやがて2010年に『ポスト学生運動史』(彩流社)という単行本になった。

中川氏ら法大黒ヘルによる“法大版・89年革命”はフツーに歴史的に重要な闘争である。

87年時点で23歳にして『余は如何にしてイスラム教徒となりし乎』(アイピーシー)というワケの分からない作品で単行本デビューし、学内でもある種の有名人と化していたらしい中川氏は、同書のプロフィール欄の「日帝本国人として批判的に生まれる」という面白すぎる書き出しからも窺えるように、正統派のノンセクト・ラジカル路線に影響されつつ一方でそれをつい茶化してしまうノリを併せ持っていたのだろうし、ただフザケているように見えた(サブカル!)ということなのか、80年代後半に突入しても法大では例外的にそれなりの規模を維持していた従来型のノンセクト・ラジカル勢の間では、もともとずっと傍流の身に甘んじていたようだ。が、88年、法大で78年以来10年間ほど続いていた中核派による恐怖支配体制を打倒しようというノンセクトの反乱が勃発して、中川氏がそのリーダーに祭り上げられる。抗争は約1年にわたって続き、翌89年夏、なんとノンセクト側の勝利に終わって、実は“中核派の恐怖支配”は法大ではこの時点で終焉するのである。
以後も法大は06年頃まで“中核派の最大拠点校”であり続けはするが、それは学内を恐怖支配し続けたという意味ではなく、ノンセクトに存在を許容してもらって引き続き学内に活動家を置くことができたというだけのことで、つまり東欧の社会主義政権がドミノ倒しに崩壊させられた89年、日本最大の新左翼党派の“最大拠点校”でも、その政権崩壊が起きていたらしいのだ。法大はノンセクトの天下となり、中核派はもはやノンセクトのやることにいちいち口出しできず、だからこそ90年代後半に松本哉が「法政大の貧乏くささを守る会」を称して大暴れすることも可能だったのである。

詳しくは『ポスト学生運動史』を読んでほしいが、私はかくも重要な“知られざる運動史”をまた1つ発掘することができて大いに満足した。

 

そもそも私は“テープ起こし”がメチャクチャ得意なのである。これを皮切りに、もっといろんな人に話を聞いて回ろうと思い始めた。
法大の話を聞いたんだから、次は法大と並んでやはり00年代いっぱいぐらいまで“いまどき学生運動が存続している大学”であり続けた早稲田大学の話を聞かなきゃいけないと思った。もちろん私が興味があるのは党派の動向ではなくノンセクトの動向で、したがって長らく早大を“最大拠点校”としてきた革マル派のことはどうでもよくて(もちろん革マル派による“恐怖支配”に歴代のノンセクトがどう対処してきたかという話には大いに興味があるが)、ノンセクトの活動家に話を聞かなければならない。

 

つづく