80年代学生運動史の研究(2) -早大ノンセクトからだめ連へ、そして素人の乱、秋の嵐、全国高校生会議


前回からつづく

 

早大でも90年代にノンセクトの中から「だめ連」が台頭してくるわけで、「だめ連」の例えばペペ長谷川氏などに話を聞いてもよかったのだが、もっと恰好のインタビュー相手がいた。やがて「だめ連」を生み出す80年代後半以来の早大“準ドブネズミ系”ノンセクトの中心人物であり、学籍を失って以降も延々と00年代末まで早大ノンセクトを“指導”し続けてきた、まるで党派活動家のようなノンセクト活動家である花咲政之輔氏だ。「太陽肛門スパパーン」なるバンドの活動でも知られる人物だが、私は90年代に「だめ連」界隈で何度か花咲氏と遭遇しており、かつ花咲氏の活動をスガ秀実氏がずっと支援してきた関係で、やはり07年の都知事選の前後にスガ氏に仲介されて、どうやら“ファシズム転向”した私を警戒していたらしい花咲氏との交友が復活していた。

中川氏にインタビューした法大学生運動史のテープ起こしをまずはネット上で公開し終えてすぐ、09年夏にさっそく今度は花咲氏へのインタビューを敢行した。80年代後半以来の“花咲一派”の一員であるペペ長谷川氏と、90年代に入ってからの一員である尾原宏之氏(現在は政治学者で、つい先日、“戦後民主主義”を代表する知識人・丸山真男の実兄で、TVプロデューサーだった丸山鐵雄の評伝『娯楽番組を創った男』を白水社から上梓した)に同席してもらったような気がする。

最初は中野の喫茶店で話を聞き、2、3時間では話が終わらず、駅前ロータリーに場所を移すと、筋金入りの奇人である花咲氏がアスファルトにグダーッと寝そべり、私を含む他3名はそれを取り囲んで車座になって、引き続き花咲氏の回想に耳を傾けた。……が、この時のインタビューは実はまだテープ起こししていない。録音に失敗して、それでも起こそうと思えば起こせなくもないんだが技術的にメンドくさい過程が必要となっていて、先延ばししているうちにもう8年も経ちつつある。

改めて聴き返してみないと細かいところは思い出せないけれども、72年に革マル派が起こした“川口大三郎君殺害事件”を承けてのノンセクトの反乱(第3次早大闘争)が敗北した73年以来、革マル派の徹底した恐怖支配に突破口を開き、早大にノンセクトが再び公然と登場できるようになるのはようやく80年代に入ってから、革マル派もそう簡単に手出しするわけにはいかない巨大組織である部落解放同盟系の反差別運動のサークルを足がかりにすることによってだった、と花咲氏自身もおそらく先輩活動家から伝え聞いたのだろうこれまた重要な証言や、花咲氏が早大入学以前に通っていた埼玉県の田舎のほうの高校は中核派の高校生組織の拠点でもあり、それを維持するために卒業が近づくたびに入試を受け直して新1年生として再入学することを繰り返している30歳近い中核派の活動家がいて、生徒会活動などを仕切っていたという珍エピソードなども含まれていたはずで、メンドくさがってないでいい加減そろそろテープ起こしなきゃいけないとは思っている。

次にやったのは、これは“80年代の”運動史ではないが、松本哉と並ぶ「素人の乱」の2大巨頭の1人である山下陽光氏へのインタビューだ。

「素人の乱」はそもそも90年代後半の松本哉の「法政大の貧乏くささを守る会」以来の“面白政治運動”人脈が、90年代半ば以来ずっと高円寺を拠点に脱力センスな一種の“面白芸術運動”を試行錯誤してきた山下陽光の人脈に、05年頃に合流する形で始まったものである。ところが07年頃から「素人の乱」を褒めそやし始めたリベラル左派どものメディアでは、あいつら自分たちに都合のいい(理解できる)側面しか見ないので仕方ないんだが、松本系の“面白政治運動”の文脈だけを強調し、「素人の乱」の実像を歪めていた。「素人の乱」界隈に入り浸って、松本哉本人以外の松本系のつまり左派活動家たちよりも、山下系のノンポリ・サブカル青年たちとよっぽど意気投合していた私は、松本系の文脈のみで「素人の乱」を語る左派メディアの“偏向報道”につねづね苛立っていたのである。

山下氏がもともと何をやっていた人で、「素人の乱」の誕生や隆盛の経緯にどういう役割を果たしたのか、私が山下氏にじっくり話を聞き、史料として残さなきゃいかんという使命感に燃えて、山下氏へのインタビューを敢行したのである。

これは私のブログの過去記事で読める。

2011年には、私の著作を唯一出してくれる彩流社という偉大な版元から『デルクイ』という雑誌を創刊した。そう明記してはいないが、私が編集長を務め、原稿依頼からレイアウトまで(レイアウトは最終段階で版元のプロに手直ししてもらっているが)全部1人でやっている。

そこに、80年代末の我々ドブネズミ派の諸運動における最重要のキーパーソンである見津毅のインタビューを掲載しようとした。原宿ホコ天を舞台とした反天皇制運動「秋の嵐」のリーダーだが、95年に27歳でバイク事故で死去している。

私は93年段階で、当時すでに運動としては終わっていた「秋の嵐」の中心人物たち数名にインタビューを敢行し、その体験を詳しく回想してもらっている。しかし先述の花咲氏インタビューと同様、かつ花咲氏の場合と違って技術的には何の問題もなく単なる怠惰の結果として、それらをテープ起こししないまま死蔵させてしまい、つまりなんと20年近く放ったらかしていた。

見津毅へのロング・インタビューなんて、もはや現代史の一級史料である。それを単なる怠惰で放ったらかしていることに我ながら罪悪感を持っていたのだが、せっかく私の判断で何でも掲載できる雑誌を創刊するのだから、この機会に一念発起してテープ起こしし、掲載してしまおうと考えた。

が、この計画は、街頭で右翼と何度も激突した「秋の嵐」のリーダーの証言を、“反体制右翼マガジン”などと銘打った雑誌なんぞに載せることは許容できない、と関係者たちからの反対に遭って頓挫した。

どういう形であれ世に出したい、と私はその後もずっと思い続け、2015年7月に紙版『人民の敵』の第10号に、これはもはや「秋の嵐」関係者には完全に無断で掲載してしまった。しかもその号には、見津毅のみならず、やはり同時期におこなったまま放ったらかしていた、そしてやはりすでに03年に病気で死去している「秋の嵐」の後期のもう1人の最重要人物・太田リョウへのインタビュー・テープも起こして、これまた無断で併載した。

現物が完成してから関係者たちにも郵送で寄贈したのだが、他に私の右翼方面の友人知人など登場させていない完全な〝「秋の嵐」特集号〟としたこともあってだろう、恐れていたほど怒られはしなかった。

93年におこなった「秋の嵐」メンバーたちへのインタビュー・テープは、他に佐藤悟志氏のものをすでに起こし、2014年12月に刊行した紙版『人民の敵』第2号に掲載している。

他にもう1人、在特会批判のモチーフで関東大震災に際しての朝鮮人虐殺を考察した『九月、東京の路上で』(ころから)で、2014年に(鹿島こそは我々ドブネズミ系第一世代の最高のイデオローグであり続けてきたのに)遅すぎる単行本デビューをした鹿島拾市(加藤直樹)へのインタビュー・テープが残っているのだが、これは約1週間にわたって計22時間ぐらい鹿島が喋り倒しているもので、とてもじゃないがなかなか手をつける気になれない。とはいえ、80年代後半の重要な運動のほとんどに当事者として関わった鹿島へのこの超ロング・インタビューは、もし起こしきれば、ドブネズミ系諸運動に関して私の『青いムーブメント』以上の最重要史料となるのは分かりきっていて、いつまでも放っておくわけにもいかない。これもそろそろ起こして、鹿島はまだ生きてるし(?)、本人と相談の上でなるべく派手な形で世に問わなければなるまい。

93年には「秋の嵐」関係者だけでなく、私自身がその主要メンバーの1人であった反管理教育運動「全国高校生会議」の他の主要メンバー2、3人にもインタビューしていて、要はこの時期、私は、80年代後半をとおして盛り上がりっぱなしだった自分たちドブネズミ系の諸運動がすでに(91年頃から)総じて失速してしまっていることを認めざるをえないと感じ、せめてそれらを記録に残す作業をやっておかなければという思いに駆られていたのである。

「全国高校生会議」の同志たちの1人、現在はなぜか名前を出すことを極端に嫌っているようなので本稿ではあえて伏せるが、“正史”である『青いムーブメント』には実名表記で登場させている某君へのインタビューも、20年以上ぶりにテープ起こしして紙版『人民の敵』第9号に掲載している。

これがまたメチャクチャ面白い。

80年代半ばに広島なんぞでガゼン教条的に左傾した中学生の某君は、とくに具体的に何か闘争を担うわけでもないのだが要するに耳年増的に左翼運動情報を集めまくり、学校の長期休みのたびにキセルで全国各地を貧乏旅行して人士を訪ね回るという、かなり特殊でヘンテコな少年になっていくのだが、やがて高1の終わりの88年春、全国から百名ほどの高校生が結集する討論合宿の存在を知り、参加して衝撃を受ける。これはその数ヶ月後の私自身の体験でもあって、私もやはり、福岡で自己流の八方破れな反管理教育運動を展開し、他に似たような高校生が周囲にいないものだから、井の中の蛙で、とにかくオレが全国で一番スゴい“闘う高校生”なんだと無邪気に思い込んでいたのが、その合宿に参加して、「オレなんか全然ダメじゃん」と思い知らされるのである。私はこれについてあちこちで、「田舎のショボい藩で息巻いてたヘッポコ志士が初めて京や江戸に出て本格派の志士と交わってヘコまされたような」体験、と書いている。

ただしそのショックは一時的なもので、次第に本当にスゴいのはその討論合宿で実は完全に孤立していたリーダー格の女性だけで、某君や私などごく数名が、彼女の志向する路線を実現するために、“まだ見ぬ頼もしい同志”を求めて全国各地を駆けずり回る。その結果として「全国高校生会議」といういわば“闘う高校生の全国ネットワーク”が89年に誕生するのである。

インタビューではそういった一連の経緯が回想されていて、読み返してみると、我ながらよく動きまくったものだと感心する。ネットなんかまだ存在しないんだし、仲間は自分の足を使って探し求める以外になかったということだろう。ネットがむしろ若者たちの本来の暴走的行動力をスポイルしている気がする。

この某君や、あるいは佐藤悟志氏にも云われたが、やはり20年以上も前のインタビューとなると、現在では当人でさえすっかり忘れてしまっている諸事実についても当時は当然、記憶が鮮明なので、「こんな貴重な証言をよく発掘してくれた」と当人たちにも感謝される。今では私にとって不倶戴天の宿敵であり、やはり「全国高校生会議」の重要な一員であった矢部史郎へのインタビュー・テープも実はたしか残っている。遠くで感謝してもらえるかどうかは分からないが、どうせ敵だし、これはそのうち勝手に起こして勝手にどこかに発表してしまおう。

 

つづく