80年代学生運動史の研究(3) -地方大学の学生運動(熊本大学・九州大学・富山大学・山口大学)


→前回からつづく

 

『デルクイ』は2013年に第2号が出ており、第3号もそのうち出すとは思うが、今のところそれっきりである。この『デルクイ』第2号で、“80年代の学生運動史”を本格的に特集し(正確には「early 90’s 学生運動の終焉」という特集タイトル)、4人の当事者に新たにインタビューして、それらのテープ起こしを掲載している。

まず私と同い年で、熊本大学に89年に入学し、90年代初頭に数名規模(2名?)にまで縮小した熊大ノンセクトの“最後の代”の1人として活動した脇元寛之氏へのインタビューである。

文字どおり“最後の代”で、脇元氏らが卒業した後は熊大からは学生運動が完全に消滅しており、「学生運動って、最後はどんなふうに“終わった”の?」ということに興味が湧いてのインタビューだ。91年の湾岸戦争に際して熊大生による反戦デモがおこなわれるらしいと聞いて福岡から押しかけ参加して以来、脇元氏とは断続的な交友関係があったのだが、学内での活動について詳しく訊くのはこれが初めてだった。

脇元氏によれば、熊大ではかつて「黒髪祭」という学園祭がおこなわれていた。これは「こくはつさい」と読み、大学が建っている「くろかみ」の地名に引っかけつつ、「社会の不当な諸々を“告発”するのだ!」という高いココロザシのもと、全共闘まっただ中の69年に、従来おこなわれていた当局お仕着せの学園祭を拒否して、“自主学園祭”として始まったものである。その後も全共闘直系のノンセクト・ラジカルの学生たちによって代々受け継がれ、90年代初頭にもまだ続いていたのだが、当局は一貫してこれを“非公認”としていたらしい。

熊大にはもともと戦旗派(西田派)という新左翼党派が拠点を持っていたが、中核派・革マル派・革労協の内ゲバ3党派とは違って、そもそも同派には“拠点校”を恐怖支配したがる体質はあまりないようだし、したがって熊大は60年代末以来、一貫して平和な“ノンセクトの天下”だった。しかも88年にはその戦旗派も、拠点サークルの部室を学外から襲撃してきた革マル派部隊に破壊されたのを機に熊大から撤退し、かといって革マル派が代わりに“進駐”してくるでもなく、新左翼諸党派とはいよいよ完全に無縁な環境になった。

ただし民青=共産党は学内でこそこそ活動していて、全共闘以来の問題意識を引き継いで黒髪祭実行委員会に結集している熊大ノンセクトとは対立関係にあったという。もっとも脇元氏らの代ともなれば共産党vsノンセクトの内ゲバがあるわけでもなし、単に先輩たちから代々申し送りされてきた「共産党は敵である」という認識を、何となく追認していたというのが実情らしい。

脇本氏の証言をまとめると、熊大ノンセクトの活動の中身は、民青を近づけないためのさまざまな工作を一方でおこないつつ、当局非公認の自主学園祭たる黒髪祭の火を絶やさず、かつまた日々のサークル活動への当局の介入に反対して、そのような動きを察知したら抗議して阻止する、というものだったようだ。

脇元氏らが実行委員会の中心となった91年の黒髪祭が終わると、脇元氏ら当時の熊大ノンセクトの最も活動的な部分から、少なくとも黒髪祭にはもう意味がないのではないかという議論が提起された。69年以来の“伝統”で硬派ぶってはいるが、実行委員会に近いほんのひと握りの学生たちだけが熱くなってるだけで、大多数の熊大生にとってはフツーの学園祭だし、当局側も“非公認”というのは単なる建前、形式上の対応にすぎず、実際には他の大学の学園祭と同じように黒髪祭の開催のためにさまざまな便宜を図ってくれていて、そんな状況で“自主学園祭”を云々するのは口先だけの欺瞞ではないか、とそれなりに本質的な問題提起がおこなわれたのである。

そもそも91年の第23回黒髪祭の準備過程で、「その頃の実行委員たちの間で問題になってたのは、そもそも『こくはつさい』っていう、何かを『告発』するための学園祭なのに、大半の学生はただバザーとかやりたいだけだぞっていう……」といった議論が始まり、“告発祭”の初心を取り戻すべきか、いっそ“告発”などとイキがるのはやめて学園祭の名前も変えてしまうか、の2択を迫られるわけだが、いったんは「『やっぱり告発でしょ』って方向に進んだわけよ」とのことで、民主的意思決定を多少ないがしろにしてしまうとしても、実行委員会の主導で、一般学生にもせめてうっすらと何らかの“問題意識”を持って学園祭に参加するよう求めたらしい。しかし、「結局はやっぱり空振りなんだよなあ。そんなね、実行委員会が主導権を行使したからって、学生が急に何かを告発したいとか、自己表現したいと思ったりするわけないじゃん」という結果に当然なり、脇元氏らは「もうやめよう」と決意して、翌92年には黒髪祭実行委員会を離れる。

それでも“伝統”を守りたい一派が引き継いで、92年の第24回黒髪祭の運営を担ったものの、その彼らも自分たちが主体的に担ってみるとやはり同じように欺瞞性に耐えられなくなったということか、さらに翌93年には「もう黒髪祭をやる意味はない」という結論を出す。そうなると慌てたのは当局側である。「いくらなんでも“ウチの大学には学園祭はない”というのは困る」と云い出して、当局が学生たちに頼み込んでもう1年だけ黒髪祭を開催してもらった、というエピソードが実にオカしい。並行して、当局側が堂々と公認できる、形式上けっして“全共闘由来ではない”、新名称の学園祭を立ち上げる準備が進められて、94年の第25回を最後に黒髪祭の歴史は終わる。

「黒髪祭を終わらせるっていうおれらの決断は要するに、『こっちじゃないな』ってことだったんだよね。おれらは何かをポジティブにやりたかったわけだよ。一般学生がついてこないしってニヒリズムに陥って黒髪祭をやめたという感じじゃなくて、新しい次の何かを生み出すためにはもう黒髪祭は終わらせるしかないよねってことなの」と脇元氏は強調する。黒髪祭から降りた脇元氏は、すぐに相棒と共に「熊本大学教養部自治会」という名の“音楽サークル”を結成し、年1回の新たな音楽イベントを92年春から学内で主催し始める。脇元氏曰く、「つまり学生全員でやろうとすると結局は最大公約数的なものしか作れないというのが、おれらが黒髪祭をやってみての反省だったわけ。だから逆にもう自分たちだけでやりたいことをやろう、と」。熊大ノンセクトのコア・メンバーはそちらへ移行するが、脇元氏がいったん大学を離れた93年以降は、ある意味では黒髪祭の本来の趣旨を引き継いでいたとも云えるその音楽イベントも徐々に形骸化し、96年頃に終わったらしい。

『デルクイ』第2号に登場する2人目の当事者は、九州大学ノンセクトのやはり最終的には“2人”とかになった“最後の代”の1人、森耕氏である。

87年に森氏が九大に入学した時点では、九大ノンセクトのコアなメンバーは総勢30名前後いて、ただしその大半はすでに“7年生”とか“8年生”であったという。森氏らより後の代からはそこに参入してくる学生は登場せず、森氏が勉学に力を入れ始めるなどして活動に時間を割けなくなった90年頃に、つまり九大ノンセクトは“終わった”ことになる。

森氏らの活動のメインも、やはり熊大の脇本氏らと同じように、学園祭や日々のサークル活動に介入しようとする当局側と対決する、というものだったが、熊大と違って九大では、森氏の入学時点で学生側はとうに敗色濃厚となっており、学生による“自主管理”で24時間使用可能なサークル棟も森氏入学の前年86年に解体され、学園祭も年々、規模縮小・規制強化を当局側に押し切られている様子が、森氏らが当時編集発行していた文化系サークル連合の新歓パンフの、新入生たちを啓蒙するために書かれたらしい文章からも読みとれる。

それでも88、89年頃までは、そうした活動を“日常的に”担う積極分子が森氏らの他にほとんどいなかっただけで、民青系の自治会が毎年招集する学生総会には計50名から100名の各クラス代表らが参加して、方針をめぐって夜どおし議論するものだったという。とくに88年は反原発運動の年であり、「原発反対」の決議を出そうという一般学生側と、当時は原発推進政党であった共産党=民青側とで激論になったり、また“反原理研”も70年代末以来、全国の学生運動の主要テーマで、原理研への非難決議を上げようとしているところに当の原理研が押しかけてきて、そういう時だけは民青と手を組んで「帰れ、帰れ」と追い返したとか、“いかにも学生運動っぽい”場面もまだたまには見られたようだ。

私が森氏と知り合うのも、89年の九大の学園祭で、森氏ら文化サークル連合の企画として教育問題の討論会を開催することになり、ちょうど『ぼくの高校退学宣言』で単行本デビューしてまもなく、地元・福岡での反管理教育運動も注目されていた私に森氏がまず接触してきたのが始まりである。どうせなら反管理教育側だけでなく体制側の連中も呼んで、当時流行っていた朝ナマの“左右激突”みたいなノリを目指そう、と話が盛り上がり、じっさい当日は、教育委員会の人や、“反日教組”のいわゆる御用組合、第2組合的な教職員団体の幹部も呼んだし、今から思えば後の日本会議に結集する系譜に属していたのかもしれない“教育正常化”の右派系市民団体の代表か何かも呼んだ気がする。もちろん“左側”の登壇者として、私を含む反管理教育運動の若者数名の他、社会党左派系の日教組の活動家や、共産党系の団体の人間も呼んだ。

森氏は2年生になる88年春頃、「ぼくにしたって基本的には(サークル棟問題などに関して)先輩から聞いた話をそのまま聞き書きで(新歓パンフなどに)書いてるだけで、当事者意識を持たなきゃとは思いつつ、かなりムリヤリ背伸びして当事者であろうとしている気がしてきて。なしくずし的に先輩たちが作った流れに乗ってきたけど、そういうのではない、もっと自分らしいことっていうか、別のことがやれないかなあとその頃から思い始め」て私に接触したと語っている。森氏もまた従来型の新左翼ノンセクト路線の縮小再生産を続けることに疑問を持ち、学内にとどまりながらも独自路線の模索を始めた“準ドブネズミ系”の1人だったようである。

『デルクイ』第2号、“80年代の学生運動”特集に登場する3人目は、これは例外的に党派活動家で、先述の熊本大学の話の中に少し出てきた戦旗・西田派という党派に属し、私より5つ年上で、84年に山口大に入学したという三浦哲史氏である。

党派活動家ではあるが、たまたま入学した山口大を拠点としていた戦旗派につい加盟してしまっただけで、ちょうど高校時代に起きた全共闘の回顧ブーム(83〜84年)にもともと影響されており、ノンセクト気質である。自派の硬直した路線に内部から異を唱えつつ、指導(?)を担当する後進の学生たちのところへも、東京出張の際などに入手してきた「だめ連」や「素人の乱」などその時々の最新モードの諸運動関連文献をせっせと持ち込んで刺激を与えようとするような人である。私にも95年頃に接触してきて、これは党派に置いとくにはもったいない立派な活動家だと感心した。

三浦氏の語る80年代半ばの山口大の学生運動状況の話がまた面白すぎる。

同じ1つの学生寮を拠点に中核派と戦旗派の勢力が拮抗しているという珍しい状況で、三里塚闘争でも共闘している関係上(三里塚の現地農民が分裂した時にこの2派とは対立する側についたのは戦旗・荒派)、表立って衝突するわけではないのだが、やはり別党派なんだしライバル関係にあって、ちょっとでも見どころのある新入生が現れると熾烈な勧誘合戦が始まる。ターゲットとなった新入生君は、最終的にどちらかの党派に加盟するか、ウンザリしてそのテの運動そのものから撤退してしまうかのいずれかになってしまうらしい。

三浦氏自身がおそらくそういうメカニズムに飲み込まれて戦旗派に加盟したのだろうし、いざ加盟してみると、今度は三浦氏もさらに下の新入生を自派に勧誘する側に回ることになる。「本当に申し訳ないことに、山口大ではノンセクトをぼくらが叩き潰したんです。もちろんノンセクトが『いちゃいけない』とはぼくらは云わないし、そう思ってもいないけど、オルグ合戦はやっちゃうから、結果として潰しちゃうんです。実際たとえば『どこそこの誰それって奴に中核派がオルグかけてるらしいぜ』って聞いたら、対抗してこっちも行くからさ。そりゃイヤがられるわ。もう運動なんかに関わるのやめようと思うよね」と、つまり三浦氏ら戦旗派と中核派とが共犯的に“山口大ノンセクト”の登場を妨げていたメカニズムに思い当たって、今では反省しきりなのである。しかも三浦氏ら戦旗派も中核派も、とにかく1人でも多くの人間を三里塚現地の集会に連れて行くことしか頭になく、当時おそらく猛烈な勢いで進んでいたはずの学内管理強化などの問題にはほとんど関心が払われていなかったという。

寮自治会以外のフツーの学部自治会は、三浦氏の入学時点ですでに山口大からは消滅してしまっていたのだが、それもむしろ諸党派側が積極的に潰したようなものらしい。三浦氏の入学以前の80年前後の話らしいのだが、「原理研が山大の学部自治会を一つ取りそうになったらしいんですよ。で、原理研に取られるぐらいなら潰してしまえってことで、こっち側が自らその自治会を潰したって。当時はそう聞いてなんとなく納得してたけど、今思えば、そんなことしていいのか」、「たとえ原理研に自治会を取られようとも、また取り返すんだという方向で考えなきゃいかんだろうと今は思うよ。それは結局、自治会を自分たちがいいように利用できる資金源みたいなものとしか考えてなかったってことなんだろうね。そりゃ潰れて当然だわと思う」と三浦氏はまた自己批判。

ただし実際にはおそらく、三浦氏らがちっとも“政治的”ではないと見なして視野に入れていなかった、三浦氏自身の言によれば「学内でチマチマとって云ったら失礼だけど、自治会活動や学園祭の自主運営とかにマジメに取り組んでたような、必ずしも狭い意味で政治的とは云えないような人たち」は存在していたようで、“山口大にはノンセクトが存在しなかった”という三浦氏の断定を完全に鵜呑みにはできない。三浦氏の“自己批判的回想”はそれはそれで面白いのだが、やはりこういう話はまた違う立ち位置からの証言も必要だ。例えば三浦氏の目には新聞部や文化系サークル連合の執行部などに“点在”しているだけで“まとまって一つの勢力として何かをやるってことはなかった”ように見えていた、しかし自主的に三里塚に足を運んでみたりする者さえ含まれていたという、「ぼくら各党派の人間が何を訴えているのかってことは一応ひととおり知った上で、あえて一線を画しているっていう人たち」の側からの証言も欲しいところだが、どこに行けば話を聞けるのか……。

『デルクイ』第2号に登場する4人の証言者のラストは、急に地理的に遠く離れて、82年に富山大に入学し、88年に中退するまで富山大ノンセクトの熱心な活動家だったという野上明人氏である。

“ロックBAR飲み歩き”を始めた経緯について書いた回で述べたように、89年にたまたま入手した、富山の若者たちが88年に発行したものらしい『へそ』なる熱い社会派ミニコミ誌の“創刊号”を、きっと当時の富山大ノンセクトが作っていたものに違いないと考えて、23年後の2012年に「当時コレを出してた人に心当たりはありませんか?」と富山市内を“聞き込み”して回り、ついに行き着くことのできた相手である。話を聞いてみると、ミニコミ誌そのものは野上氏が富山大を中退する前後に創刊したものだが、その“前史”として案の定、富山大ノンセクトとしての活動期があったわけだ。

野上氏の回想によれば、やはり私がもともとイメージしていたとおり、富山大のような地方の大学にもそれなりの規模で学生運動はフツーに残っており、「多い時には百人以上の動員ができてたし、ちょっと何かやろうと思えば数十人単位で人は集まったし、三里塚だって富大から三、四十人で行ってましたよ」というのが80年代初頭から半ばにかけての状況らしい。また三里塚闘争について私が抱いていた誤ったイメージもこの証言で修正された。つまりそれがほとんど諸党派の活動家だけが足を運ぶ一種“マニアック”な闘争になったのは、83年に現地農民が分裂して諸党派間の内ゲバの新たな火種となり、状況が深刻化して以降のことで、それ以前はノンセクト活動家だってフツーに行くものだったことに気づかされた(そういえば、80年代の“埼玉大ノンセクト”と“ほぼイコール”の存在であったに違いないと私はもはや見なしている「劇団どくんご」の、演出家・どいの氏が最近、見沢知廉の小説『天皇ごっこ』に“名場面”として描かれた、さまざまな党派が呉越同舟的に同席していて誰がどんな演説をしても野次り倒されていたのが、現地農民のリーダーの「天皇制打倒!」の演説が万雷の拍手を浴び、全参加者を一体感に包んだという三里塚の野外集会について、「実はオレもあの場にいたんだよ」と突然云うので驚いた)。

富山大の教養部と経済学部にはまだ当局公認の自治会があり、83年に野上氏らノンセクトが民青から教養部自治会を奪い、野上氏自身が副委員長などのポストに就いたというし、翌84年からは民青側が不活発になって候補を立てなくなり、経済学部に進んでからも無投票で野上氏らが自治会執行部を形成して、80年代いっぱいぐらい、そのままノンセクト系の自治会が教養部・経済学部ともに続いたらしい。「ちゃんと全部のクラスを回って自治会選挙の話もしたし、ビラもガンガンまいてたし、それなりにマトモにやってましたよ」、学内でのそうした活動はとくに珍しい光景ではなく、「教室でビラをまきながら演説してるところに教授が入ってきても、教授も五分ぐらいは待ってくれる。調子に乗って十分ぐらい続けてると『いい加減にしろ』と云われて、『分かりました』って出て行く。相性の悪い教授の時にはわざと長めにやったり、相性のいい教授の時には早めに切り上げるようにするとか、そういう駆け引きみたいなこともありました」とのことだ。そういう場合の演説の内容も、必ずしも学内問題に限らず、むしろ一般の政治的なテーマ、例えば〝中曽根政権批判〟などであることのほうが多く、前述の九州大の例でも学生総会で原発批判の決議を上げようとしてたり、要するに“そういうもの”だったのだろう。

もちろん当局側との交渉ごとも盛んにおこなわれ、野上氏の時代にも「学部長や学長を相手に団交したり、大学本部の建物を何日間か占拠したりってことはありましたよ」と語られている。

2014年以降は主に紙版『人民の敵』を、こうした運動史の証言インタビューを掲載する媒体にしている。

 

つづく