80年代学生運動史の研究(4) -「ニューウェーブ」反原発運動と札幌ほっけの会


前回からつづく

 

第3号および第13号には、80年代末のドブネズミ系諸運動の最重要グループの1つである、当時の反原発運動の最左派部分を担った「札幌ほっけの会」の宮沢直人へのインタビューを掲載した。

宮沢はドブネズミ系諸運動を担った主要な活動家たちの中では1人だけ突出した年長世代に属し、55年生まれで、76年に福島大に入学している。もちろん学生運動に参加しており、ついでに“80年前後”ということになる福島大の状況についても訊いた。

ただし宮沢は札幌の高校時代から大学時代の前半までは民青の活動家である。「福島大は、生協、労組、経済学部教授会、教育学部教授会、経済短期大学教授会、すべて共産党系で、一大拠点だった」というが、宮沢自身も在籍していた“経済短期大学部”という夜間の特殊な学部の廃止問題をめぐって、夜間短大の党組織のリーダーだった宮沢の活動は、上部組織である党の地区委員会の方針との間に齟齬を生じ、79年、脱党するに至る。1年間ほどの活動のブランクを経て、韓国の民主化運動を支援する新左翼系の学生たちと共闘関係を築き、以後83年に中退するまでを基本的には福島大ノンセクトの活動家として過ごす。

「当時の福島大には、教育学部に中核派系、第四インター系がいた」、「経済学部には新左翼系の活動家はまったくいないという状況」で、自治会は両学部とも民青が握っていた。第4インターの活動家たちが81年に開始した“金大中死刑阻止”の運動に宮沢も参加し、この問題を討議する臨時の学生総会を要求する署名運動は、必要な「全学生の過半数だったか3分の1だったか」の署名を集めることに成功したという。この過程で、宮沢の自称によれば“第4インター系ノンセクト”の勢力が福島大に形成された。「ジグザグデモなんかにも一応の人数を集められるようになったし、三里塚にも行ったり。その過程でぼくも半年間ぐらい、第四インター系の学生・青年組織に加盟してた」とのことである。

宮沢ら3、4名の中心メンバーが卒業したり中退したりで大学を去ると同時に福島大ノンセクトは自然消滅したらしい。その後も中核派と民青の運動は残り、宮沢らの時代には中核派が10名ほど、民青に至っては100名ほどのメンバーを福島大に抱えていた。宮沢が福島大に在籍した期間は、ちょうど福島大が、市街地から周囲に何もない辺鄙な郊外へとキャンパスの移転を順次進めていく時期と重なっていて、夜間短大部の廃止と並んでこの大学環境の無菌化も後継者作りを困難にさせたようだ。

83年に札幌に戻った宮沢は、札幌でやはり第4インターの青年組織と連絡をつけたり、高校生のアナキスト・グループと知り合ったり、2、3年の間に総勢10名ほどの若者たちによる一派を形成する。やがて北海道で最初の原発となる泊原発の稼働阻止が札幌の左派シーン全体で焦点化し、ちょうどそこへ86年のチェルノブイリ原発事故を承けた87年の“広瀬隆ブーム”が重なって、広く世間でも反原発の機運が高まり始めるのである。87年夏に反原発の野外集会に参加してみると、宮沢一派の他にも2つの北大生グループが参加しており、若者どうしで自然と親しくなって、10月26日つまり“原子力の日”の反原発行動に向けた3派の共闘関係が成立し、これがやがてそのまま「札幌ほっけの会」となる。

「週1ぐらいで集まりをも」つようになり、なにせ80年代後半というのは加速的に盛り上がっていく高揚期であって、「気持ちとしてはどんどん高揚局面に入ってるし、あれもこれもできるんじゃないかっていう。で、“伊方”で衝撃を受けるわけだよ。本当に止められるかもしれないって。すぐ四国に3人派遣した」という。“伊方”というのは88年1月にいよいよ火がついた、新しいタイプの反原発運動のことである。

広瀬隆に感化された大分県のオバチャン(といっても現在の私よりは若く、当時40歳前後の要するに全共闘世代)が、対岸の愛媛県から大分県に向かって突き出した岬の突端にある伊方原発で予定されていた“出力調整実験”とやらに恐怖心を募らせ、抗議行動の日を設定して全国の反原発派に手当り次第に「香川県高松市の四国電力本社前に集合!」と呼びかけたところ、当日フタを開けてみると老若男女さまざまな人々数千人が四電本社前に出現、そのまま2日間にわたって大騒ぎしながら路上を占拠してしまったのである。これを機に“反原発運動の突然の高揚”は全国ニュースとなり、高揚は秋ごろまで続いて、その約半年間あまりは新聞・テレビなどのマスメディアでも原発批判は解禁されたし、キヨシローやブルーハーツや佐野元春ふぜいまでが反原発ソングを次々と発表して話題にもなった。

突破口を開いた四電本社前行動の翌2月の第2弾に、「ほっけの会」はさっそく3名を派遣して(と『人民の敵』第3号では語っているが、第13号のインタビューでは「中学生・高校生・大学生・青年労働者、それぞれ男女1組ずつ」つまり8名を派遣したと語っていて、情報として詳細な「8名」のほうがおそらく正しいのだろう)、全国から駆けつけた、とくに学生たちに札幌での泊原発運転開始阻止闘争への結集を呼びかけたのである。この時に「ほっけの会」の“工作員”たちにまんまとオルグされ、やがて札幌へと転戦した若者たちの中に、当時は法政大の学生だった鹿島拾市や、その相棒的存在だった(のちの“社会派エロマンガ家”)山本夜羽音らも含まれている。

前述の“大分のオバチャン”小原良子は、世代的には全共闘世代に属するけれども元活動家というわけでもなく、広瀬隆ブームでガゼン反原発運動に目覚めた、いわば私たちドブネズミ系と世代的には同じなのに80年代後半には無難なサブカル三昧の日々を過ごし、9・11あるいは3・11のショックで30代・40代になってから急に社会問題に目覚めた「首都圏反原発連合」の人たちのようなもので、“既成の運動”をコトサラに否定したがるところも似ていて、小原派は従来の反原発運動に「オールドウェーブ」のレッテルを貼って全否定し、自派のそれを「ニューウェーブ」と称して、全国の反原発派の間で〝オールドウェーブvsニューウェーブ〟の論争(というより後者から前者への一方的非難・罵倒)がやかましくなっていた。宮沢らはもちろんニューウェーブの側にシンパシーを感じてはいたが、当時の北海道の状況は少し特殊で、「“オールドウェーブ、ニューウェーブ”って分けられないというのが実情だったんだ。“オールドウェーブ”的な傾向の人たちと、“ニューウェーブ”的な傾向の人たちが、北海道では仲が良かったからね」、「当時のぼくらの見立てでは、北海道の反原発運動の一番外側には全道労協の殻があって、次に札幌地区労の殻があり、その次に“千人行動”だか“百人行動”だかっていう元全共闘の諸君の野合集団みたいな労働者グループがあった。そういう構造の中の最左派に『ほっけの会』がいる。88年に至る過程で出てきたオバサンたちはそれぞれ、いろんなところにいて、ぼくらと常に行動を共にしてるようなオバサンたちもいたし、地区労と一緒に行動してるようなオバサンたちもいた」という状況だったらしい。

「ほっけの会」は血気盛んな若者たちの集団として、ちょっとでも隙があれば北電本社に突入しようとした。そもそも88年の“ニューウェーブ”的な反原発運動は全般的に、とくにオバチャンたちが過激で、2度にわたって“道庁知事室前ロビー占拠”なんて事態も引き起こしている。当時の北海道知事は社会党系の横路孝弘で、急速に反原発に傾いた支持者たちから突き上げを食らう恰好になっていたのだが、後述の辰田収氏は、「北教組の周辺に『母と女教師の会』という退職した女教員のグループがあって、そこに横路の恩師がいっぱいいたんですよ。で、彼女たちが『孝弘、オマエなにやっとるんか』っていう……」、「で、話の途中で『ちょっと座らせてもらうわよ』ってその場に座り始めちゃったのがきっかけなんだ」と“ロビー占拠”について説明する。2度目の占拠はなんと1週間近くに及び、最終的にはこれを排除するため、“ベトナム反戦以来”だという道庁への機動隊導入がおこなわれ、もちろん占拠に参加していた「ほっけの会」からも逮捕者が出た。もっとも、何かあればすぐ“突入”しようとする「ほっけの会」は、この88年の一連の闘争でのべ10数名の逮捕者を出している。

それでも運動全体の中で「ほっけの会」はとくに浮き上がって孤立していたわけでもなく、当時の北海道の反原発運動には重層性があって、「穏健な部分から先鋭的な部分まで、お互いを罵り合わずに、しかもお互いの存在を念頭に入れながら、それぞれが戦術を練ってたんだから、そういう意味では88年には成功の可能性があった」と宮沢は強調する。10月の試運転開始に際しては、「ほっけの会」の周辺にいた活動家の1人が送電鉄塔に突然よじ登って、試運転の開始を予定より数時間遅らせたが、その後も穏健派部分が地道に進めていた道議会への住民投票条例の制定要求があわや通りかける局面があり、これが当時の反原発派に訪れた最後の勝利のチャンスで、そのギリギリの攻防に宮沢ら過激派部分が何らかの形で絡むもう一押しのアイデアがあれば勝っていたかもしれない、とまで云うのである。

つづく