80年代学生運動史の研究(5) 歴史のブラックボックスと化している“80年代の学生運動史”


2015年9月の宮沢への2度目のインタビューに際しては、さらに宮沢の仲介で、当時の北海道の“大人たち”の反原発運動の中で最も「ほっけの会」にシンパシーをもって接し、協力関係にあった、宮沢曰く“元全共闘の諸君の野合集団みたいな労働者グループ”である「千人行動」の中心人物・辰田収氏にもインタビューすることができ、そのテープ起こしは紙版『人民の敵』第14号に掲載されている。

辰田氏にはもちろん、88年の反原発運動への関わりについても訊いたのだが、せっかくなのでその全共闘体験についても語ってもらった。辰田氏は、66年に北海道大学に入学し、2年生だった67年10月の、“68年”の高揚を一気に加速させることになる羽田闘争のニュースに衝撃を受けて学生運動にのめり込んだという、まさに生粋の全共闘世代だ。

全共闘運動については、東大や日大のそれは一般的な通史でもおおよその経緯は説明されるし、2009年には小熊英二の大著『1968』(新曜社)が出て、“プレ全共闘”と呼ばれる慶応大、早大、横浜国立大、中央大など首都圏のいくつかの大学での闘争の経緯も比較的容易に知ることができるようになった。さらに芝浦工業大学の全共闘運動を回顧した『もう一つの全共闘』(芝工大闘争史を語る会・柘植書房新社・2010年)など、各大学の個別の全共闘運動に関する本もいくつか出てはいる。

しかし当時は全国の8割方の大学、つまり中央も地方も関係なく、国公立も私立も関係なく、学力レベルすら関係なく、女子大なども含めて大半の大学では全共闘学生たちが大暴れしていたわけで、うち容易に入手できる形でマトモな記録が書き残されていない大学のほうが圧倒的に多いはずである。そういう仕事はもちろん、私でも小熊英二でもなく全共闘世代の当事者たちが自分でやるべき仕事だし、今からでも記録を書き残すことは彼らの義務だと思う。が、私も興味はあるので、機会があればとくに地方大学の全共闘運動については、当事者に遭遇した時になるべく証言を聞き取っておきたいと思っていて、図らずも辰田氏へのインタビューがその第1弾となった。

辰田氏によれば、67年末時点の北大は、民青と革マル派による“棲み分け”を背景とした、他派やノンセクトが公然登場しにくい「一種の戒厳状況」で、羽田闘争で突破口を切り開いた三派全学連(中核派・ブント・解放派)にシンパシーを抱く辰田氏らは極少数派として、民青や革マル派の監視の目をくぐり抜けながら細々と活動していたらしい。もともと辰田氏は“社会党内の構造改革派”というマニアックな潮流に属しており、新左翼なのか旧左翼なのか、あるいはおそらく“新左翼にシンパシーを持つ旧左翼”とでも云うべき微妙な立ち位置の人である。ところがおりしもベトナム反戦運動が高揚に向かう中、若い労働者版の全共闘とも云える「反戦青年委員会」が各地で結成され始め、これを主導したのが社会党・構改派だったため辰田氏にとっては追い風となった。学生運動の全共闘と並んで60年代後半を象徴する市民運動「ベ平連」に参加する北大生たちと組んで、クラスごとにベトナム反戦のグループを作ろうと呼びかけて回ったところ、多くの賛同を得て辰田氏らの一派は突然200〜300名規模の大所帯となり、これが北大全共闘の始まりであるらしい。

もっとも辰田氏は運動に火をつけるだけつけた段階で、すぐさま反戦青年委員会の労働運動に学生の身ながら専従活動家として引き抜かれてしまって、その後の北大全共闘の“本番”にはほとんど関わっていないそうだ。2年ほどして大学に戻ってみると、北大全共闘はそもそも数が多いだけの烏合の衆で、方針が定まらず、「最終的には北大本部に立てこもって、要するに“東大安田講堂”のミニチュア版をやって最後を飾るという、非常に単純な道を選んでしまっ」て崩壊した後で、残党たちと革マル派との間で内ゲバが始まっていた。「北大の場合には圧倒的にノンセクトが大多数だったので、内ゲバ的な状況になると、足早にみんな逃げ出しちゃうわけですよ。それでコアな党派活動家だけが残る。で、革マル派に徹底的に叩かれる。結局はもう動けなくなってしまう」という展開でついに北大全共闘は跡形もなくなってしまう。

その後の辰田氏の証言は主に労働運動に関するもので、本稿のテーマから外れるので省略するが、なるほど各大学にはそれぞれの学内事情があって、全共闘運動の展開もまたそれぞれで面白い。

私は例えば地元の九州大学の全共闘運動についてもまったく知識がないし(よりによって68年に構内に米軍機が派手に墜落して運動の火に油をそそいだ、という愉快なエピソードだけは有名すぎるので知ってるが)、調べようと思ったら誰に話を聞きに行けばいいのかも分からない。

長年にわたって数多くの文章を書いてはきたが、“調べて書く”ようなタイプの書き手ではなく、自分が体験したこと、考えたことを書いてきただけなので、そういうスキルが一切ない。日本会議の源流を探って60年代後半の長崎大の右翼学生運動に辿り着き、その詳細を調べあげた菅野完氏の仕事は実に偉大だし、とても私なんかには真似できない。小熊英二の『1968』についても、小熊氏の全共闘運動への悪意に満ちた低い評価には同意できないが、膨大な史料を渉猟して首都圏のいくつかの大学での闘争の経緯を詳細に跡づけた点にだけは素直に感心する。

そういえば菅野氏の仕事を補完する意味でも、当時の長崎大の左翼学生側の当事者を探し出して話を聞いてみたいものだ。佐賀大全共闘については、すでに当事者に出会っておおよその経緯については聞き、さらに詳細を語ってくれそうな当時のリーダーの連絡先も教えてもらえたので、近々コンタクトをとってインタビューを申し込むつもりである。熊本大全共闘についても詳細を知っていそうな人の心当たりがある。さらに私の友人が、熊本商科大学(現・熊本学園大学)などというマニアックな大学の全共闘の元リーダーを知っていると云うので、ガゼン興味を抱いている。そういえば75年だかに“高校生だけでおこなわれたものとしては鹿児島で最後のデモ”をやったという、つまり元高校全共闘の活動家と10数年前にちょっと知り合っていて、今ではパッと名前も思い出せないのだが、ツテを頼れば辿り着けなくもなさそうな人もいる。

もちろん私の関心のメインは、歴史の完全なブラックボックスと化している“80年代の学生運動史”の発掘にある。

この10数年の私にとって超身近な存在である「劇団どくんご」こそ、実は80年代の埼玉大ノンセクトと“ほぼイコール”であったらしいことに今さら気づいてショックを受けているところだが、「どくんご」の初期メンバー以外で当時の埼玉大の状況をよく知る人とすでに別ルートで最近知り合っていたことにも気づき、これは今月中にでも話を聞きに行くつもりである。

熊本大のそれについては、すでに脇元寛之氏に詳しく聞き取りをしたわけだが、脇元氏と共に熊大ノンセクトの“最後の2人”だったうちの“もう1人”とも最近になって交友関係が復活し、証言者は多いに越したことはないので、彼の証言も近々改めて聞いてみるつもりでいる。

80年代の九州大ノンセクトについても、森耕氏よりさらに上の世代の中心的な活動家だった人と、長らく疎遠になってはいるが連絡を取ろうと思えば取れる。89年に反管理教育の活動家だった私に接触を図ってきてくれて、当時は親しく交流のあった地元・福岡の学生運動家には、九大の森氏の他に福岡教育大学の自治会の面々がいて、実は民青系だったのに党の指導に反して私なんかと親しくしてしまう不良分子たちで、これまた長らく疎遠にはなっているものの、連絡をつける方法がないでもない。

『デルクイ』第2号の時になぜ思い出さなかったのか、そういえば私がかつて実質的に主宰していた「だめ連福岡」には、90年代に東北大でノンセクトの自治寮の寮委員長を務めていた者がいて、もちろん今でも簡単に連絡が取れるし、そもそもたまに会っている。

京都大学の80年代ノンセクトの中心人物の1人で、今でもたぶん本格派の活動家であり続けている人とも、やはり長らく会ってはいないが、これまたおそらく会おうと思えば会える。

こう考えてみると、現時点でもまだまだ話を聞きに行かなきゃならない人が具体的に次から次へと思い浮かぶ。本当はどこか私と組んでくれる版元でもあればいいのだが、ないので経費もすべて自己負担、成果の発表媒体も引き続き紙版『人民の敵』とする以外にない。今回いくらか詳しく“これまでの成果”について報告したので、私がこの数年どれほど貴重で重要な仕事をしてきたか、ある程度は窺い知れたはずである。あちこち出張って話を聞きに行く資金提供の意味でも、超高額な紙版『人民の敵』を購読してもらいたい。また自分の運動経験について証言したいという人からの連絡も待っている。

 

この稿おわり