限りなく中核派にちかい東北大学ノンセクト・原理研と闘う埼玉大学ノンセクト


販促シリーズってことで、先日1ヶ月以上遅れで発行した『人民の敵』最新28号の内容を紹介をしよう。

前々回の最後にチラッと書いたように、“80年代以降の学生運動史”に関してまだインタビューしてない友人知人の心当たりが何人もあって、今回さっそくそのうち2人にインタビューし、あっというまにテープ起こしして、即座にそれらを併載した。

元東北大ノンセクトの松本勝己氏にインタビューしたのは1月20日のこと。松本氏が妻子(妻は1人だが子は何人いるのかよく分からんぐらいたくさんいる)と共に暮らす、福岡市近郊某市の一軒家へ出向いて話を聞いた。

松本氏とはもともとかなり親しい、長い付き合いである。

99年、私が当時、“事実上”主宰していた「だめ連福岡」に、東北大を卒業して就職で福岡に移住してきたばかりの松本氏から連絡があった。もっともその時期はちょうど、01年から裁判闘争が始まり、その結果として02年から長期投獄されることになる、その大元の事件が勃発して「だめ連福岡」は大混乱していたところだったのだが、なんだかんだで例えば裁判闘争をネタに頻繁に“交流会”を開催したりはしてたので、松本氏とも頻繁に会うようになった。松本氏の就職先というのはナナナナなんと某銀行だったのだが、毎晩遅くまでコキ使われてすっかりスポイルされたようで、私が2年間投獄されている間に退職して、出所後に久々に会ってみると、“前衛芸術”と称して九州各地の風光明媚なスポットまで遠出しては全裸で舞い踊り、それを自撮りしたものを自分のサイトに次々とアップするという何というか……ムズカシイ人になっていて、「だめ連福岡」時代に松本氏を地元の前衛芸術ネットワークに紹介したことが激しく悔やまれた。最近は(たぶん)更生したようで私もホッと胸をなでおろしている。

そんな人だが学生時代は(も?)ちゃんとタタカッテいたのである。99年当時まだ“自治”が続いていた東北大の学生寮の寮委員長まで務めたバリバリの闘士であることは、出会ってすぐの段階で聞き知っていた。その話を、今回改めて詳しく根掘り葉掘り訊いてみたのである。

松本氏は74年生まれで、つまり私の4歳下ということになる。高校生までは長崎県佐世保市で暮らしたそうだ。村上龍の“高校全共闘”小説『69』の舞台・佐世保北高校とは別の高校らしい。大学受験期に現国だか小論文だかのテストでウォーラーステインの文章に出会い、感銘を受けて、マルクス経済学を学ぼうと決心し、一浪して東北大の経済学部に進んだという、自治寮の寮委員長になるべくしてなったような奇特な人である。

入学は94年ということになる。

当時の東北大には学生寮が8つもあって、もともとはその大半が学生運動の拠点だったらしいが、94年時点では“闘う自治寮”は日就寮(まだ闘ってるかどうかは知らないが今もある)と有朋寮(今はもうない)の2つだけになっていたそうだ。日就寮はノンセクトの拠点で、有朋寮は中核派の拠点だった、と松本氏は云う。もちろん松本氏は日就寮に入ったのだが、それはたまたまのことで、マルクスを学ぶつもりではありつつ、最初から“学生運動”など意識していたわけではなかったらしい。まあ、90年代に九州の田舎で高校生をやっていたんだから、当たり前の話ではある。

今でも続いているのかどうか知らないが、当時は、日就寮に入るとまず2週間ぐらい、新入寮生全員参加で連夜の“学習会”が開催されて、寮自治闘争の歴史や、その時点で寮が取り組んでいるさまざまな社会問題について徹底的に詰め込み教育されるものだったようだ。入寮生は毎年20人ぐらいずついて、もちろんその入寮するなり“連夜の学習会”に怖じ気づいてすぐさま退寮してしまう者も多少はあって、それでも、留年している人たちもいるし日就寮には100人ぐらいが住んでおり、彼らは全員、その洗礼にひるまず試練に耐え抜いた者たちなわけで、濃淡はあれ寮自治会が主導する学生運動に関わったり、大部分は少なくとも協力的・好意的ではあったというから、90年代半ばの話としてはかなり珍しいことだ。

もっとも松本氏の話をよくよく聞いてみると、松本氏自身は主観的には断乎として“ノンセクト”であったらしいのだが、テーマからスタイルから、具体的に聞けば聞くほど「それはほぼ中核派なのでは?」とツッコみたくなってくる活動内容なのである。もう1つの有朋寮が“中核派の拠点”になったのは松本氏の入学直前のことで、それまでは中核派もノンセクトも日就寮に共存していて、したがって引き続き日就寮に住んでいる中核派の学生も何人かいたらしい。90年代半ば、“学生運動”なんてものに関する情報源は、まして地方ではそうそうあるもんじゃないから仕方がないのだが、私のツッコミを受けて、「たしかにそうなんだよなあ(笑)。自分でも気づかないまま、中核派の主張を新入寮生たちに教え込んでた。だって反戦とか沖縄闘争とか、そのテの問題に関する情報源が、オレには中核派のものしかなかったんだもん。“集団的自衛権”がどう“悪い”のか、よく考えたらそれも全部、『前進』(中核派の機関紙)に書いてあったことをそのまま受け入れてるだけだったしさ(笑)。でも当時はまったく自覚がなかった」と松本氏は振り返る。

当時の東北大の学生運動を担っていたのはほぼ全員、日就寮か有朋寮の寮生たちで、ただし一応は“ノンセクト”が主導していた日就寮と、有朋寮とでは明白に違いもあったようだ。松本氏の説明によれば、「やっぱり自治会が中核派であるのとノンセクトであるのとでは全然違って、ノンセクトなら寮生全体をおおよそまとめきれてたのが、中核派になっちゃうとそれ以外の寮生たちが自治会に距離を置き始めて、寮の中で自治会だけが浮いちゃうんだ。だから日就寮では、そういう政治的な問題意識が旺盛な部分と、それほどでもないけど多少は協力的な部分と、あんまり問題意識のない部分とがグラデーションを成してる感じになるけど、有朋寮では、中核派とそうでない大多数とに完全に分かれてしまう」、「中核派ではない“大多数”の中にごく少数のノンセクト活動家がいても、その主張は常に中核派に潰されるから、大多数と中核派との間をつなぐ者がいなくなる。だから有朋寮には中核派と反動派しかいなくなってしまうんだよ」ということである。

松本氏は中核派の諸君と一緒に、あるいは“ノンセクト”独自で、構内でビラをまいたりアジったりデモったりの熱いキャンパス・ライフを送り、したがって少なくとも90年代いっぱいの東北大では、そういう光景はフツーに見られたようだ。寮生以外にも、松本氏らの界隈にたまに顔を出す程度には活動に参加していた、やがてエドワード・サイードの翻訳者になったりする学生など、少しはいたらしい。

もちろん松本氏も最後まで“限りなく中核派に近いノンセクト”であり続けたわけではない。入学・入寮4年目にして、97年、当時は法政大の学生として「法政大学の貧乏くささを守る会」の運動をめったやたらと盛り上げていた、のちの「素人の乱」総帥・松本哉の存在を(もちろん極左系の)雑誌で知り、さっそく東京まで会いに行ってまんまと影響を受けてしまう。それ以前も東北大の中核派学生にくっついて、法政大の中核派の活動を支援するためによく法大には行っていたらしいのだが、その頃の法大黒ヘルの諸君は、東北大からの外人部隊の中にまさか“ノンセクト”が混じっていようとは夢にも思わなかったに違いない。ともあれ松本氏は、ついに当時の“最先端のノンセクトのありよう”を知ってしまったのである。

もちろんさすが歴戦の闘士だけあって、松本氏は、のちの“ゆとり全共闘”などの諸君とは違って、松本哉の作風を例えば“鍋”とかだけ表層的にコピーしたりはしない。やはり松本哉の運動に衝撃を受けた同志と語らって、「やっぱり“祭り”路線だろう」ってことで、当局お仕着せのフツーの学園祭の開催に合わせて、キャンパスの一部を勝手に占拠してステージを組み立て、「文系祭」と称する“もう1つの学園祭”をオールナイトで強行してしまうのである。

「まずは学生のいろんな自主的な活動を支援するような部署を担当してる教授のところに話をしに行ったら、『学部長に相談してみなさい』と云われたんで、オレが在籍してる経済学部の学部長のところへ行って、そしたら『文系独自の学園祭があってもいいかもね』と云われて、『よし、これでOK!』って(笑)。その“学生支援”みたいな部署から教授会にも諮られたみたいで、『ダメだ』ということになった、ってオレに電話がかかってきたけど、『学部長がいいって云ってた』というのを根拠に勝手に強行した(笑)。まあ、夜中に一部の学生で騒いでるだけなんで、大学としてもべつに困るわけでもないしね」と、さすが歴戦の闘士はミジンも悪びれるところがない。留年して翌98年にも「第2回文系祭」を強行、99年春の松本氏の卒業後も、これは何度か続いたそうである。

 

 

『人民の敵』最新28号のもう1つのコンテンツは、80年代の埼玉大ノンセクトだった瀬戸口礼司氏へのインタビューである。1月27日、瀬戸口氏の住む鹿児島まで話を聞きに行った。

これまで何度か書いているように、私がイチオシしてるテント劇団「どくんご」は、もともとは埼玉大の演劇サークルで、83年に埼大演劇部を改称する形で誕生している。創設メンバーで演出担当の伊能夏生氏から、「ぼくらも埼大の学生運動の“端っこのほう”にいた」という話は以前から何度も聞いていて、そのまま額面どおりに受け止めていたのだが、昨年、私は初めて会った元劇団員で創設メンバーだという人から「もともとは学園祭実行委員会が埼大ノンセクトの結集軸になってたんだけど、あくまで学園祭をやるのが公的な活動内容の団体だし、それでは運動を妨害する原理研と充分に闘えないんで、伊能と一緒に“全学井戸端会議”というのを立ち上げて原理研と対峙した。メンバーは『どくんご』とほぼ重なってた」という話を聞かされ、「ん? それはつまり、ちっとも“端っこのほう”なんかではなく、『どくんご』がまさに埼大ノンセクトのメインだったってことでは?」とガゼン疑いを深くし、そのことをちょっとtwitterで書いたら、連動させてるFacebookのほうで、「そうなんですよ!」と反応をくれたのが瀬戸口氏である。それは詳しい話をぜひ(劇団側には内緒でこっそり)聞かせてくれ、とインタビューを申し込んだ次第だ。

どこで会ったのかは実は覚えてなかったのだが、瀬戸口氏とは私はすでに1度会っているはずだった。改めて訊くと、4年前に「どくんご」の宮崎県都城市での公演で会ってるらしい。埼大時代には「どくんご」の大ファンで、しかし大学を卒業して長らく疎遠になっていたのが、まだ「どくんご」が活動を続けていて、近所で公演があることに気づいて久々に顔を出してみると、しかもまさかいつのまに同じ鹿児島に拠点を移ってたことを知らされて驚いたそうだ。

瀬戸口氏は66年の早生まれで、したがって学年的には私の5つ上である。なんと私も(1年間だけ)通った、鹿児島市の近隣の加治木町というところにある加治木高校の出身で、今回のインタビューでもまずは加治木高校への悪口雑言で大いに盛り上がっている。

私の在学していた時期には(朝日新聞が取り上げて問題にしたことがあったらしく)すでにおこなわれていなかったのか、それとも当時の闘争の一環で私は他の生徒たちより1時間遅く登校することにしてた結果として私だけ体験しなかったということなのか、瀬戸口氏によれば加治木高校には“集団かけ足訓練”なる野蛮な風習があったそうで、「週に1回、木曜日だったかな、全校生徒が校庭でクラスごとに整列させられた後、グラウンドの一番外側のフチをグルグルと、まあ〝かけ足〟というかジョギングですよね、走らされる。しかもただ走るんじゃなくて、全校生徒千数百人、その全員の〝右・左〟のタイミングが揃うまでやらされるんですよ。ザッ、ザッ、ザッ、って」、「ザッザッザッという音を教師が集音マイクで録音して、それを聞かされたりもしましたよ(笑)」、「体育の教員がトラメガを持って、妙なアジテーションをやるんです。『いいか、お前ら! 全員が1つになれば、こんなに素晴らしいんだ!』とか云ってる(笑)」と、聞けば聞くほど野蛮である。

実は先述の「どくんご」都城公演を主催していたのも私の加治木高校の(私が転校しなきゃ在学期間も重なってたはずの)後輩で、私が3つの高校をすべてやめて以降に本格的に開始した反管理教育運動のメンバーの1人だった人である。私が鹿児島で一番古く(05年)から行きつけにしている飲み屋のマスターも、全共闘世代の実は加治木高校出身者で、インタビュー後に連れ立って顔を出して瀬戸口氏を紹介した。瀬戸口氏が云うには、瀬戸口氏の2つ上の代の生徒会長は、早大の教育学部で“管理教育”を批判的に研究していたらしい。そういえば私と同じ代の生徒会役員の1人が、実は私もやがて影響を受ける当時の反管理教育運動の総本山、保坂展人主宰の青生舎の影響で「学校を変えるぞ!」と意気込んで生徒会選挙に立候補したんだとだいぶ後になって私も彼もそれぞれ高校中退してから聞かされて驚いたことがある。「反抗心をほどよく刺激してくれる、〝ほどよい管理教育〟だったんでしょう(笑)」、「管理体制が中途半端だからなのか、ごく一部の反抗的分子が出てくるのは当然としても、多少は行動してしまえる余地がある。だからこそ反抗心が一時的なもので終わらないのかもしれない」(私の発言)ということなのだろう。

さてその瀬戸口氏、埼玉大に入学するのは84年のことで、「どくんご」創設の翌年である。

パンク・ファッションに身を包んだ先輩と親しくなり、誘われてまずは生協の運動に、入学まもない段階で参加したらしい。ところが主導しているのは共産党で、当時はバリバリに展開されてた(もしかして今もやってる?)共産党名物“うたごえ運動”のノリに、そもそも高校時代はYMO少年だったという瀬戸口氏はさすがに呆れ果て、次第に足が遠のいて、ルームシェアしてたノンセクト活動家学生(「80年代も半ば近いのに“学生運動をやりたくて”大学に入ってきたような奴」)からの影響もあり、2年生の時に、埼大ノンセクトの一翼を担っていた新聞部に入る。

80年代というのはとにかく「原理研にどう立ち向かうか」が全国の学生運動共通のテーマになっている。云うまでもなく原理研は新興宗教「統一教会」の学生団体である。もともと“反共”は統一教会の教義の1つで、最近話題の「日本会議」の中枢部分(日本青年協議会。菅野完氏の大傑作で大ベストセラー『日本会議の研究』参照)が傘下に組織した学生団体「反憲学連」と連携して、70年代半ばあたりからか、原理研は全国の大学に信者を意図的に送り込み、左翼の学生運動を(往々にして大学当局と結託して)潰すための活動に精を出していた。

瀬戸口氏は当時の「埼玉大学新聞」をたくさん持参して、新聞部員としての原理研との闘いを語ってくれた。正体を隠して民青系の自治会にスパイとして加入していた原理研の学生がいたというエピソードも面白かった。その学生は実名と顔写真入りで「埼玉大学新聞」で非難されていたので試しに検索してみると、長野県の統一教会系の団体で今も活動しているようで、かつ某有名進学塾の某市校で“校長”をやってることが判明して、感心するやら呆れるやら……。ちなみにスパイを見破った自治会委員長のほうは今は埼玉県某市の市長をやってるそうだ(もちろん共産党)。

ただ民青系自治会は(さすがにスパイは摘発するけれども)原理研との闘いにはあまり熱心でなく、先述のようにノンセクトの結集軸である学園祭実行委員会も、そもそも原理研と闘うために存在する組織ではないから活動主体としては不適格である。埼大には当時、戦旗派(荒派)と中核派の活動家も何人かずついたが、これまた(闘う意欲はあるのだが闘い方が下手くそで)アテにならなかったらしい。そこに颯爽と登場したのが“全学井戸端会議”つまり「どくんご」の面々である。「原理研の学生たちが埼玉大学で集会を開いた時に、『どくんご』の人たちが非常にユニークな方法で彼らを“撃退”したことがあるんですよ。文鮮明(統一教会の教祖)の写真を踏み絵のように敷き詰めて……(笑)。原理研がワーッとやって来たんだけど、“踏み絵”に気づいてビックリして止まったんだそうです(笑)。“さすが『どくんご』だ!”って、ますます『どくんご』に惚れ込みましたよ」と瀬戸口氏。ただし後日「どくんご」の伊能氏に改めて確認してみると、この時の原理研の集会は屋内でおこなわれ、その、会場となったキャンパス内の建物のすべての出入り口のドアの外に、集会の最中に“踏み絵”を敷き詰めておき、つまり連中が“一生そこから出られないようにしてやった”ものらしい。効果は相当なものだったようで、原理研の諸君は悩みに悩んだ挙げ句、最後は全員窓から出てきたそうである。

この他にももう1つ、瀬戸口氏は「どくんご」の“武勇伝”について証言してくれているのだが、それはちょっとココでは書けない。いや、「どくんご」の面々は今なお「アレは我々がやったのではない」と公式には云い張っているので(そのトンデモない“事件”が起きた時、「誰がやったのか分からないが断乎支持する!」という「どくんご」名義のタテカンが出たそうだ)、“誰がやったのか分からないのだが”と念を押した上で書いてもいいのだが……やっぱりやめておこう。知りたきゃ『人民の敵』最新28号を入手すべし。

 

というわけで相変わらず紙版『人民の敵』はスコブル面白いのである。読まなきゃ人生の重大な損失である。