『アナキズム入門』(森元斎)・『現代暴力論』(栗原康)を徹底批判の読書会 [紙版『人民の敵』29-30号]


紙版『人民の敵』販促シリーズである。

前回は、80年代と90年代にそれぞれ埼玉大と東北大で“いまどき珍しく”学生運動を担っていた2人の元活動家にその体験を根掘り葉掘り訊いた第28号の紹介をした。

28号は一応1月1日に発行したことになっているが、実際に発行したのは2月7日とかそれぐらいである。毎月200枚前後の原稿を独力で用意するのは大変で、ひと月ていどの遅延は頻繁なんだが、たまにひと月に2号出したりして遅れを取り戻し、2014年10月の創刊以来、ちゃんと現在までに30号出して(4月1日に出てなきゃいけない第31号はまだ出てないんだが)、“月刊”のペースをどうにか守り続けているのは我ながら感心だ。

今回は、前回の記事以降に発行した第29号と第30号の内容をまとめて紹介する。

左右の活動家や元活動家、演劇や現代美術などの関係者その他へのインタビューや、私との対談、座談会のテープ起こしというのが紙版『人民の敵』の通常コンテンツのメインである。しかし第29号で、座談会の一種といえば一種なんだが、その新パターンを思いつき、以後、第30号さらには現在編集中の第31号にもその“新パターン”座談会を載せている。

読書会のテープ起こしである。

公式サイトのトップページ等でも告知しているが、2月以来ほぼ毎週、福岡のアジトで読書会を開催している。主には、私が個人的に“日本3大過激老人”と呼んでいるスガ秀実氏・笠井潔氏・千坂恭二氏の文章をテキストとしながら、私が私の周囲の人々に共有してほしい認識を少しずつでも共有してもらっている。

私の読書会のやり方はたぶん独特で、参加者全員がテキストを手元に持ち、20~30ページぶんずつまずはそれぞれ黙読した上で、よく理解できなかった箇所を挙げてもらい、理解できた人が解説する、というものである。もちろん誰も理解できなかった場合は、「おそらくこういうことではないか?」と議論になる。全員がおおよそ納得したら、さらに次の20~30ページぶんについて同様におこなう。

私がこれまで体験したり見聞きした他の読書会では、たいてい指定されたテキストを事前に参加者各自が読んでくることになっていて、しかし本当に全員が事前にちゃんと読んでくることなどほとんどない、というものが多かった。しかし私の読書会では、全員その場で読むんだから、そういうことはありえない。むしろ、テキストはそれぞれ入手して持参するだけでよく、事前に読んでくる必要などない読書会なのである。

まあ最大10人前後での読書会では、この形式がベストだと思うし、参加者たちにもおおむね評判がいい。福岡での読書会は、今のところ大体6、7名の参加で推移している。

で、『人民の敵』第29号に、この約5時間の読書会の様子を1回ぶん丸々全部、テープ起こしして掲載してみた。

その3月19日の読書会では、“日本3大過激老人”の著作を主に読むという趣向を変えて、森元斎という人が上梓したばかりの『アナキズム入門』(ちくま新書・17年3月)という本をテキストとした。森君は同じ福岡に住んでおり、活動範囲もうっすらカブっていて、したがって私とも面識がある。とくに仲が悪いわけではないが、思想的にはたぶんかなり相容れない。森君は、私の元同志で現在は不倶戴天の宿敵である矢部史郎派の一員なのである(もっとも最近“決裂した”とのこと)。読書会は私の、

同じ福岡で活動してる人間が『アナキズム入門』なんて本を書くというのは、ファシストであると同時にアナキストでもある我々としては、内容によってはキビしく対応せざるをえないわけで、これから初めて読むわけですけど、もしダメな内容なら歯に衣着せずに“徹底批判”することになるでしょう。

という“宣言”で始まる。もちろん、たぶん“徹底批判”せざるをえない内容なんだろうな、という含みがあるし、実際ほぼ“酷評”的な読書会となったんだが、なるべく先入観を排し、公平に公正に読み進めたつもりではある。

読書会を終え、2日ぐらいでソッコーでテープ起こしをし、紙版『人民の敵』用にレイアウト作業をしながら、「検閲読書会」というフレーズを思いついた。そうだ。この読書会で時々、“日本3大過激老人”の著作以外にも今回のように、最近話題の(まあ森元斎君はまだそこまでの存在ではないと思うが)新進論客、同世代以下の論客たちの著作をテキストとし、“検閲”するというのもいかにもファシストっぽくて面白い。“検閲”つまりチョー過激な“ファシスト兼アナキスト”として、私と違って軟弱でヘナチョコであるがゆえに私と違って論壇等で活躍することができている若手文化人どもの、その軟弱ヘナチョコぶりを挙げつらって嘲笑う読書会である。きっと胸がスーッとする。

さっそく翌週3月26日と翌々週4月2日の2回にわたって、今度は、森君の盟友のようでもある、こっちは正真正銘“最近の流行若手文化人”の1人である栗原康の『現代暴力論』(角川新書・15年)を“検閲”した。もちろん先述のとおり、ファシストである私は悪意の塊であると同時に常に公平公正を心がけている。何より私の主催する読書会では、私も含めて全員がテキストを最初から最後まで熟読した上で詳細に論評しあう。

紙版『人民の敵』第30号に掲載した“『現代暴力論』読書会・前篇”から、こちらはハイライト・シーンを引用紹介しよう。私の長ゼリフである。

ぼくが読んでて疑問に思ったのは、“フツーの人”を煽ろうという気で書いてる本だろうと思われるにも関わらず、例えば141ページ2行目に、著者が肯定的に使いたい「永遠のゼロ」という言葉について、「右翼に簒奪された」云々と書いてるでしょ。たしかにバカウヨ作家のベストセラー小説のタイトルですよ(笑)。百田尚樹をロクでもないと思うのは別にいいし、まったくそのとおりですけど(笑)、ここで「右翼に簒奪されたこのことば」というふうに書くことによって突然、“右翼は敵である”と見なす栗原康の政治的立場が表明されてるわけです。もちろん栗原康が左翼であることや、右翼を敵と見なしてることそれ自体をぼくは批判してるんじゃなくて、こういうことを何の説明もなしに書くことを批判してる。ここで、読者は左翼であることが前提とされていることが、突然明らかにされるわけですよ。“アナキズム”なんてものについてよく知らない人に向けて書いているとしか思えないような、すでに“入門”して久しい人にとっては今さら説明されるまでもない話に延々とページを割くような書き方をしていながら、実はそもそも“左翼”しか相手にしていないことが、このワンフレーズで露呈してる。“右翼は悪い”という説明をした上でならともかく、そんな説明は抜きにいきなりこのフレーズですからね。
で、振り返ってみると冒頭でも同じような個所があったはずです。「はじめに」のところ、8ページに、素人の乱の反原発デモに日の丸を掲げた「右翼みたいな人たち」が混じってて、「いかつい坊主の兄ちゃんが、バカでかい黒旗でそいつらをバシバシと」シバいたことについて、栗原康は明らかに肯定的に書いていました。まさに当時、問題になったことだけど、素人の乱の最初のデモに集まってきた1万人以上の人々の大部分は、右でも左でもない、そんなことに興味を持ったこともないような素朴な人民大衆で、ただ純粋に“もう原発はやめてほしい”という気持ちで参加しただけですよ。そういう場で、ごく一握りの特殊で頑固な左翼原理主義者たちが、たぶん実際には右翼でも何でもない、“日本人よ今こそ起ち上がれ”ぐらいのつもりで日の丸を持ってきた人たちを“暴力”で叩き出したわけです。そんな光景を見せられたら、参加者の多くはドン引きしますよね。“右とか左とか関係ない”デモだと思って素人の乱のデモに参加したのに、やっぱりこれも“左翼のデモ”なんだと思っちゃうに決まってます。で、4月10日には大多数を占めてたモノホンの人民、右でも左でもない“フツーの人たち”はどんどん反原発デモから足が遠のいて、素人の乱のデモも含めて、反原発はまたもや“いつもの左翼の人たちがやってる運動”になって縮小してしまう。原発が止まらなくて当然です。しかし栗原康は、そういう問題にまったく無頓着なわけです。実際この人は、そもそも矢部史郎派の一員でしょうし、“反原発デモから日の丸を持った連中を叩き出すのは当然だ”と思ってる特殊な左翼原理主義者の1人なんでしょう。155ページあたりでは、労働運動にしても反原連の反原発運動にしても、反体制運動の中にまた別の秩序が再生産されてしまうことを嘆くそぶりを見せつつ、“反原発デモから右翼を叩き出す”ような秩序の形成は肯定してるわけじゃん。これはおかしいよね。少なくとも何の説明もなくこういうふうに書くのはおかしい。

“後篇”は只今鋭意編集中の第31号に掲載予定で、その“酷評”ぶりは“前篇”以上なのだが、それについては31号の刊行後にまた改めて紹介する。

なお第29号には、『アナキズム入門』読書会の“誌上再現”の他に、書下ろしの単行本用原稿(もちろん軟弱ヘナチョコでない私の著作を出そうなどという版元は皆無なので単行本化の具体的予定はない)『全共闘以後』第二章・前篇が併載されている。要は以前このweb版『人民の敵』で「青いムーブメントとドブネズミ世代の政治史」と題して4回にわたって素描したうちの、80年代前半にあたる部分を詳細に書いたものだ。

第30号には、『現代暴力論』読書会の“誌上再現”前篇の他に2つのコンテンツがある。

1つは、これは実はページ数が余ったための穴埋め的なやつなんだが、我が九州ファシスト党<我々団>が擁する優秀な芸術工作員である山本桜子・東野大地の2同志との単なるダベリ的な座談会である。もちろん“穴埋め”の“ダベリ”だといっても私がテープ起こししているのだから読み物としてベラボーに面白いことは保証する。

それなりに内容のある話(現代美術シーンへの批判など)も含まれているのだが、どーでもいい話がまたどーでもよすぎてすごい。一例を挙げる。先日の“学生向け教養強化合宿”で、山本桜子が炊事係を一手に引き受けたことに関するくだりである。

山本 期間中たいてい1人で台所にいるじゃないですか。1人で物体と格闘してると、いろいろ面白いことに気がつくんです。例えばニンジンって、切る前はものすごく持ちやすいけど、ミジン切りにすると、めっちゃ持ちにくくなるんですよ。

外山 うん、当たり前だね(笑)。

山本 すごいと思いませんか? だって固体性は保たれたまま、持ちにくくなるんです。扱いづらい形態に進化する。

外山 ミジン切りにするとなぜか不思議とそうなっちゃうよねー。

山本 あと、食材にも熱を加えると柔らかくなるやつと、そうでないやつとが存在する。

外山 “ならない”ものって例えば?

山本 玉子なんかは熱を加えると逆に固くなるでしょ。

外山 おおっ、たしかに!

山本 だけどニンジンやジャガイモは柔らかくなる。

外山 コンニャクは変わらないよ。

山本 そう! “変わらない”ものもあるんですよ!

外山 豆腐も変わらない。

山本 それでも往々にして、もともと柔らかかったものは熱を加えると固くなって、固かったものは柔らかくなるという傾向はあるように思うんです。“熱を加える”なんて暴挙を食材の上に及ぼしたからには、何らかの画期的な状態変化が起きてしかるべきだ、という期待も我々人間の側にあると思う。……と、そのようなことをカレーを作りながら考えたりしていました。“固い”とか“柔らかい”とかいうのも、そもそも相対的な問題でしかない、ということにも気づいたし。

外山 とにかく、合宿期間中に数多くの無駄な認識を獲得した、と(笑)。

山本 あと、前に外山さんに勧められて読んだ『占星術殺人事件』を参考に、チクワを1本増やしたりもした。

外山 ……食事係なんか押しつけて、すみませんでした!(笑)

第30号のもう1つのコンテンツは、これは私のライフワークと化している“学生運動史研究”の最新版、主には80年代以降の運動史を発掘しているんだが、今回は、“記録がほとんど残っていない”という点では80年代以降のそれとほぼ同様である“地方のマイナー大学での全共闘運動”の発掘である。インタビューに応じてくれたのは、熊本市で「夢桟敷」というアングラ劇団で今も座付作者を続けている山南純平氏で、「熊本商科大学」(現・熊本学園大学)の元ノンセクト活動家だ。「熊本大学」ではなく「熊本商科大学」である。そんなところでも“学生運動の高揚”が!? というインタビューに当然なる。

もっとも山南氏の在学期間は71年から76年にかけてで、正確には60年代末の“全共闘”の体験者ではなく、その余韻が続いている時期の活動家ということになる。68年時点では、山口県下関市というこれまたマイナーな地方都市で、まあおおよそ“高校全共闘”だったと云ってもよかろうような、髪型自由化闘争などを担っていたそうだ。

「80年代学生運動史の研究」の第5回で、北海道大学でのそれについて少し紹介したように、70年前後の学生運動状況も、全国各地おおよそ似たようなところもありつつ、やっぱり大学ごと地域ごとの特殊な事情もそれぞれあって、いざ根掘り葉掘り訊いてみると、面白い話がいっぱい出てくる。

今回の山南氏へのインタビューでは、やはり党派が仕切っている自治会と、山南氏らノンセクト活動家との関係が面白かった。熊本商科大の自治会は、なんと革マル派が牛耳っていたらしい。党派というのは共産党系の民青も含めてどこでもそうだが、とにかくいったん自治会を握るとその権力を利用して自派以外の学内の諸運動を抑制する。とくに革マル派にはその傾向が極端に顕著で、その“拠点大学”ではまさに恐怖支配がおこなわれる。熊本商科大でも、他党派はもちろんノンセクトも、革マル派が学内の動向に目を光らせている間は、少なくとも派手な活動はできない。

が、たまに革マル派がいなくなることがあるそうなのである。東京とかの運動に一斉動員されて、革マル派の自治会がもぬけの殻になることが時々あったらしい。すると突然、ノンセクト学生たちがそれまでどこに隠れていたのか降って涌いたように何百人も現れる。今のうちだ、と党派自治会があまり熱心に取り組まない学内問題について騒ぎ始めたりするのである。例えば72年だかに、革マル派自治会がまた急にいなくなった隙をついて、学食の料金値上げ反対運動を短期決戦で勝利させたり、74年だかに、これは結局負けてしまったが学費値上げ反対運動がかなり盛り上がったりしたという。革マル派さえいなければたまに学生側が勝てたりもする、というのがものすごくオカしい。学食問題で勝った時には、やがて革マル派が戻ってきて、「ん? いつのまにか勝利してるじゃないか。いったい誰がやったんだ?」ということになるのだが、またみんな“フツーの学生”のふりをして、「知りませーん」となるのだそうだ。
 とにかく紙版『人民の敵』は相変わらず内容充実、昨今の軟弱ヘナチョコ若手文化人の本を百冊買うより『人民の敵』を1号でも買って読むほうが、はるかに安上がりではるかに楽しいし役に立つ。