読書会実況中継シリーズ: 栗原康『現代暴力論』・絓秀実『1968年』 [紙版『人民の敵』31号]


前回、紙版『人民の敵』第29号および第30号について紹介したばかりだが、その後さらに第31号を刊行したので今回もまたその販促を兼ねた内容紹介をしよう。

すでに書いたとおり、私と誰かの対談や座談会のテープ起こしを主なコンテンツとしてきた紙版『人民の敵』の新趣向として、第29号から今回の第31号にかけて、福岡でやっている読書会の模様を“完全再現”してみた。第29号では森元斎『アナキズム入門』(筑摩新書・2017年3月)をテキストとした3月19日の読書会、第30号では栗原康『現代暴力論』(角川新書・2015年)をテキストとした3月26日の読書会である。しかし『現代暴力論』は1回約5時間の読書会では読み終わることができず、4月2日に改めて後半を読み進む読書会をおこなって、それを“完全再現”したのが第31号の“コンテンツその1”となっている。

そもそもこの計3回の読書会は、1回目を終えてみて「“検閲”読書会」というコンセプトが固まり、“最近よく名前を見る新進論客”の著作を熟読した上でその軟弱ヘナチョコぶりを寄ってたかって挙げつらうものである。『現代暴力論』についても、その前半を熟読した回ですでにさんざんな叩かれようではあったのだが、後半がまた、「恋愛という暴力」と題された第4章、“自由恋愛論”から始まったのも災いして、前半以上に非難囂々の読書会となってしまった。後半にのみ参加した紙版『人民の敵』常連で、福岡の“外山界隈”が誇るインテリ右翼の藤村修氏も、後日あらためて前半部を個人的に読み直したらしく、「第4章から読み始めたんでなければ、もうちょっと好印象だったかもしれない」と云っている。

とにかく『現代暴力論』後半部の読書会は文字どおりコテンパンなのである。

すでに前半部の読書会で、栗原康の“アナキズム”が、政治思想・社会思想というよりも個人の“生きざま”論になってしまっている点が参加者たちには大いに不評で、インテリを自負する書き手にとっては最大の侮辱であるに違いない“知的生き方文庫”呼ばわりまでされてしまっていたのだが、第4章はいきなり栗原自身の失恋についての長々とした“自分語り”から始まって、読書会は一気に「またかよ!」的ムードに包まれた。
もともと柄谷行人マニアでもある常連参加者・A女史などは、「自分をフッた女の人への腹いせをこういう公開の場でやってるわけで、その程度の仁義も切りきらんクズ男ってことです」、「こんなことをこんな場所で書かれたら、もしこの女の人がこれを読んだとして、“違う!”と思っても何も反論できないじゃないですか。好きだった女の子に対して、そういう最低限の仁義すら切れんような男と付き合っちゃいかんでしょう。何をされるか分かったもんじゃないです」などと、ほとんど著者への人格攻撃に走り始める。福岡県内の、福岡都市圏以外の無法地帯(いわゆる“修羅の国”)から読書会に通ってきているA女史は、“仁義”に厳しいのである。

外山 しかしこの人は、自分が貧乏でカネも将来性もないからフラれたかのように

(「わたしは文章でも、大学の授業でも、友人間のつどいでも、『はたらかないで、たらふく食べたい』ということを公言している。……反労働というか、はたらかないと口にだしていってみることが、この息苦しい資本主義からぬけだすひとつの肝だとおもっているし、そうやって生きたほうがほんとうにたのしいだろうとおもっている。じっさい、いまわたしは年収一〇〇万円にもみたないのだが……いがいと、たのしくやっているのだ。でも、たぶん相手の女のコからすれば、それがゆるせなかったのではないかとおもう。……カネがないだけならまだしも、カネがないのにそれでいいんだといって、イケシャアシャアとたのしそうに生きていることがゆるせないのだ。このやろう、調子にのりやがって、気持ちわるいのだ。……よりによってわたしのようなクズというか、かせごうともしない人間から好きだといわれたわけである。おそらく、そういうふうにクズから口説けるとおもわれてしまったこと自体が、かの女にとって屈辱だったのだろう」 [『現代暴力論』167-168ページ]などと )

書いてるけど、貧乏でも将来性がなくてもモテてる人なんかいくらでもいるよね。たぶんこの人がフラれたのも、別の理由からだと思う(笑)。

A女史 分かりきってますよ。

外山 自分がフラれた理由をこんなふうに“社会のせい”にするような奴だからこそ、フラれたんだろうという疑いが濃厚だ(笑)。

A女史 ほんと、鬱陶しい。

藤村 フラれた時に相手の女性から云われた言葉が書いてあるけど

(「おまえがわたしを好きだということは、わたしの自尊心を傷つけるということがなぜわからないんだ! くそ、気持ちわるいんだよ、おまえの存在が。視界にはいるな、消えてなくなれ、死ね、死ね」。 [同166ページ])

“貧乏だから”みたいなことを少なくとも直接は云ってないよね。単に“おまえの存在が気持ち悪い”ということで……(笑)。それに続く、“カネや社会的地位がないからフラれた”みたいな文章を読むと、この女の人の云うことはまったくそのとおりだなあと思ってしまう(笑)。

(略)

外山 「おまえがわたしを好きだということは、わたしの自尊心を傷つける」という相手の言葉を、栗原康は

「よりによってわたしのようなクズというか、かせごうともしない人間から好きだといわれたわけである。おそらく、そういうふうにクズから口説けるとおもわれてしまったこと自体が、かの女にとって屈辱だったのだろう」

と解釈してるけど、“おそらく”とあるとおりそれはあくまで栗原康の解釈にすぎないし、さらに、この女の子がまるで「恋愛は結婚の原型みたいなもので、将来の安定した経済生活をいとなむためにするものである」(168ページ)みたいな価値観に“縛られてる”かのように書くのは、これはもうまさに、この女の子に対する栗原康の偏見というか決めつけというか、むしろ侮辱ですよ。しょせんそういう“悪しき価値観”の持ち主だったんだろうって、勝手に相手の像を設定して、要するに“あの女のほうが悪いんだ、ボクは間違ってない”みたいなことを書いてる。……フラれて当然です(笑)。

と、ひとしきり“人格攻撃”で盛り上がってしまった。

まあもちろん、かなり呆れ果てつつではあっても参加者全員でテキストをちゃんと細部まで熟読するのが私が主催する読書会の流儀である。今回の、『現代暴力論』後半の読書会“完全再現”の白眉は、私が文中のなにげないフレーズにふと引っかかる場面だろう。

 

外山 “長渕”が出てきたのには気づいた?

A女史 えっ!?

E氏 どこかに出てきましたっけ?

藤村 「くそったれの人生」のところだね。

外山 さすが藤村君、よく分かってらっしゃる(笑)。245ページの、「やるならいましかねえ。どんとこい、くそったれの人生」という部分が“長渕”です。“やるなら今しかねえ”は、長渕剛の大量の歌詞の中でもとりわけ有名なフレーズの1つだと云っていいでしょう。

A女史 ほんとに“有名”ですか?(笑)

外山 なにせ、かの“国民的ドラマ”『北の国から』で、主人公の“純くん”のお父さんである“五郎さん”が繰り返し、いっつも風呂で口ずさんでたフレーズなんです(笑)。そりゃあ“人口に膾炙”してますよ。(略)で、もう1つの「くそったれの人生」というのも、これはぼくはよく知らないけど、やっぱり長渕にそういうタイトルの曲があったはず。

藤村 “♪ほんとのことを云えばぁ、きっとラクになれるさ?”っていう。

外山 そっちも中身まで知ってるのか(笑)。とにかくまあ、どっちか1つのフレーズだけなら微妙だけど、ひと続きの文章の中に2つ並んでるってことは、明らかに長渕の歌詞からの“引用”です。

A女史 そうなんだ……。

外山 (略)いや、でも何か分かってきたぞ!

A女史 “分かってきた”!?

外山 こういう人、いる!

E氏 急に何か閃いたようですね(笑)。

外山 最終章まで来て、あとは“あとがき”しか残ってないから、ほぼ“読み終えた”と云っていい段階だと思うけど、この原稿用紙数百枚分の長い文章の中で“歌詞の引用”があったのは、少なくともぼくが気づいたかぎりでは2ヶ所だけで、もう1ヶ所については先週も指摘したように、つまり“長渕とブルーハーツ”だけなんだよ。で、そういう人はたしかにいるんだ、“ブルーハーツと長渕”が好きなタイプの人。

東野 ブルーハーツの引用はどこにありましたっけ?

外山 えーとね……12ページ、「はじめに」の中に出てくる。「あれがしたい、これがしたい。もっとしたい、もっともっとしたい」っていう、ここはブルーハーツの「夢」(92年)って曲の歌詞です。

A女史 すごいですね。外山さん、なんか探偵みたい(笑)。

外山 ブルーハーツのファンの中でも質の悪い、低レベルな連中が“長渕もいい!”って流れはたしかにあったんだよ。(略)「とんぼ」をはじめ何曲か続けざまに大ヒットした90年前後というのが、ちょうど“チンピラ気取り”と“もろヤクザ”の端境期で、ある種の鬱屈した、でもしょせんアリガチなタイプの高校生とかにもカリスマ的な人気が一番あった頃だと思う。ブルーハーツは逆に89年に失速して、やがて“シニカル転向”してしまうって事情も絡んで、“ブルーハーツから長渕へ”って流れは確実に存在したんだよ。つまり……そういう人だ!(笑)

E氏 全然分かりません(笑)。

東野 外山さんが何か1人で納得してる(笑)。

外山 (略)そうか……“長渕の人”だったか……。

A女史 探偵さんが急にしんみりしてる(笑)。

外山 (略)なるほどねえ……うん、“長渕アナキズム”だったんだな。

A女史 なんか外山さんがすごくスッキリしちゃってる(笑)。

外山 スッキリしたよ(笑)。どうも栗原康って人が……書いてある内容がくだらないとか、具体的にどうくだらないかとかは、さんざん云ってきたようにいくらでも明確に云えるけど、なんでこんなことになっちゃうのかが実は今ひとつピンときてなかった。それが、“長渕の人”が“アナキズム”とかに入れこんじゃうと、たしかにこうなるだろうって、すごくよく分かる。

 

省略した部分で、ブルーハーツや長渕についてよく知らない人のための歴史的背景の解説とか、その他いろいろ分析的なことなども語っているのだが、読書会終了後に調べてみると、栗原康は長渕ファンである事実を公言しており、自分の“名探偵”ぶりに我ながら感心した。

もっと本質的な批判ももちろんおこなわれている。

1つは、“あとがき”的な「おわりに」で、“反サミット行動”への参加体験を語っている部分への私の批判である。

外山

「何人かの友人といっしょに二〇〇八年にひらかれる日本の洞爺湖サミットに反対しようとおもっていた。それで前年度がドイツのハイリゲンダムサミットだったので、そこでくまれる抗議行動を見物しにいった」( [同259ページ])

ってことで、ドイツでの反サミット行動に参加した体験を書いてる。それはいいんだけど、やっぱり問題は、栗原康や矢部史郎たちが主導した肝心の08年の洞爺湖サミットでの反対行動はどうだったのか、ということじゃないですか。なのにそれについては一言も書いてない。ドイツでの反サミット行動がいかに“暴力的”で“楽しかった”か、という話だけだよね。ぼくも08年の洞爺湖サミット反対行動にはワケあって参加したけど、ここに出てくる、「ブラックブロック」と呼ばれてる「海外のアナキスト」たちも多少は来てた。もちろん欧米圏からは日本は遠いんで、たいした人数は来てなかったとはいえ、欧米では大暴れしている歴戦のブラックブロックの連中も、洞爺湖サミットではまったく暴れることができなかったんです。矢部周辺から漏れ伝わってきた話では、矢部が主催してたキャンプ地にやってきたブラックブロックの連中は“暴れようぜ”と盛んに提起してたらしい。それを矢部たちが、“日本のデモ規制は欧米のそれとは全然違って、そう簡単に暴れることなんか不可能だ”と説明するんだけど、やっぱり日本の事情を知らない海外のアナキストたちは納得しないよね。“お前らもアナキストを自称してるくせに何をビビってんだ?”って反応になる。ところが、いざデモ本番になって、ブラックブロックの連中は暴れようと当然いろいろ試みるんだけど、実際やっぱり暴れることなんかできないんだ。“日本のデモ規制”を現場で体験してみて初めて、海外のアナキストたちも矢部とかが云ってたことを“ほんとだ!”と理解したそうです。つまり“日本でも欧米のアナキストたちみたいに暴れようぜ!”といくら煽ったところで、その当の欧米の過激なアナキストたちでさえ日本ではまったく暴れることができなかったっていう、その事実をこそまずは直視しなきゃいけないはずだよ。“なぜ暴れられないのか?”というのは、意志や決意の問題ではなくて、警備体制をはじめ日本特有のさまざまなメカニズムが“暴動”的なものを完全に抑え込んでるからで、そのメカニズムを分析して対抗策を提起しないことには、“暴れようぜ!”と煽ったって暴れられるわけがない。もちろんその日本特有のメカニズムは、警備体制にしても、デモ参加者たちの大部分を含む“フツーの日本人”の過激派アレルギーにしても、日本の“68年”の諸運動が70年代以降どう特殊で悲惨な展開をしたかってことと密接に関連してて、当然そのあたりを仔細に検討する作業が必要になるでしょう。この本に書いてあったような“一般論”としての国家論ではなく、日本の“68年”以降の運動史、“68年”の“その後”について考えないと、なぜ日本人が「あばれる力」を失ってしまっているのか、ちっとも明らかにはならない。栗原康も洞爺湖サミットでは、暴れる気満々だったはずなのに、つまり“意志や決意の問題”は解決済であったはずなのに、結局ちっとも暴れられなかったので、こんなふうにその前年のドイツでの体験を書くしかないわけでしょ。もし洞爺湖サミットで暴れてたら、ここではその話を書くはずだよね。それができないという忸怩たる思いがまったく感じられない。結局この人は少しもマジメに考えてないってことだよ。

もう1つは、森元斎の『アナキズム入門』も含めて、彼らの“アナキズム”がしょせん“仲間うち”の議論にすぎないことを指摘する部分である。

外山 それこそ“イイネ!”というフレーズもこの本のあちこちに何度か出てきた気がするけど、“イイネ、イイネ”と“共感の輪”を広げていきさえすれば暴動が起きるかのように勘違いしてるようであるのが、この本の一番ダメなところだ。(略)「おわりに」の後で最後にオススメしてる3冊の“暴力論”の本というのも、酒井隆史の『暴力の哲学』(河出書房新社・04年)、矢部史郎&山の手緑『愛と暴力の現代思想』って、もう1冊の外国文献(不可視委員会『来たるべき蜂起』彩流社・10年)を除いて要は2冊とも単に“仲間うちの本”だよね。さらには「第五章」での「犠牲と交換のロジック」というのも、238ページに、そもそもは「思想家の白石嘉治さん」の言葉だと書いてあった。この人もたしか……(と本棚を漁って)やっぱりそうだ。『ネオリベ現代生活批判序説』(新評論・08年)の編著者で、矢部史郎もこの本の寄稿者の1人です。たぶん矢部派の“事実上の機関誌”である『VOL』(以文社・06年から11年にかけて5号刊行)にも書いてるんじゃないかな(“書いてる”どころか“編集委員”の1人だった)。「第三章」(162ページ)に名前が出てくる「飛矢崎雅也さん」って人もたぶん含めて、この人の“アナキズム論”は、大杉とかバクーニンとかの原著を除いては、結局“仲間うち”の本しか参照してないんだよ。(略)で、この栗原康が“アナキズム研究者”を自称するくせに浅羽通明の『アナーキズム』(ちくま新書・04年)はどうも読んでないらしいことを先週、「第三章」の記述から推理して批判したでしょ。その、栗原康が読む気もないんだろう、“アナキスト”を自称してもいない浅羽通明の『アナーキズム』なんかは、古典から執筆時の最新文献まで、あらゆる立場の活動家や論客やジャーナリストその他いろんな人が書いた膨大な“アナキズム関連文献”を参照し、紹介してるっていうのにさ。そりゃたしかにぼくだって、ぼくと近い立場の千坂(恭二)さんや?(秀実)さんや笠井(潔)さんの文章を、影響も受けまくってるわけだし、盛んに引用したりします(笑)。しかし、そうではない人、ぼく自身は敵視してるような人の書いたものまで含めて、参照するし、場合によっては“オススメ”したりもするよ。しかしこの栗原康は……。

藤村 “土人アナキスト”(笑)。

外山 うん。狭い共同体の中だけでモノを考えてる人、“アナキスト版タコツボ”あるいは“アナキスト島宇宙”の住人だよね。しかも“矢部派”という、現代日本の狭い“アナキズム”シーンの中でもさらに狭い特殊な一部でしかないようなタコツボ。仲間うちでお互いが書いた本を読み合ってるだけで、自分たちとは違う立場の人間が書いたものは読もうともしないらしいことが、この本の随所で露呈してるわけです。巻末で「お薦め文献」に挙げるのも、“お仲間”の本だけ。先週からさんざん云ってるとおり、徹底的に“他者”がいない、“私”の延長で形成されてる人間関係の内部で“アナキズム”がどうこう云ってるにすぎない。そういう気色悪い“お仲間”に私まで入れようとするな、ってことで女の子にフラれたりしてるんでしょう(笑)。「消えてなくなれ、死ね、死ね」、「視界に入るな」ってそりゃ云われるわ(笑)。

E氏 その女の子はせっかくこの人の前に珍しく“他者”として登場してくれたのに、結局いつもの“自分語り”の材料にされてしまって……。

外山 「おまえがわたしを好きだということは、わたしの自尊心を傷つける」、つまり私をおまえのその気色悪い“お仲間”の一員に加わってもらえるような人間だと見くびるな、ってことだよね。

藤村 なるほど!(笑) そう考えると完全に辻褄が合う。

A女史 納得いきました(笑)。

東野 ……あ、「いいね、いいね」は234ページにありますね。「いいね、いいね。まわりに評価してもらうために生きている」って、これはむしろ、従順な生き方をそうやって持ち上げ合って足を引っ張り合ってる状況を批判的に書いてる部分ではありますけど。

外山 でもこの人のやってることも同じでしょう。“暴れようぜ”、“いいね、いいね”っていう(笑)。

東野 あるいは大杉栄のツイートにイイネ!を押してるだけ(笑)。

外山 でも反原発デモに日の丸を持ってくるような奴は“ブロックします”!(笑)

 

実は4月22日に福岡でなんと森元斎&栗原康のトーク・イベントが開催され、しかも私ともともと多少は交友のある森氏が、紙版『人民の敵』第29号で自著が批判されていると知って、ぜひ来てくださいと“ご招待”までされてしまったので(そこらへんは森氏、実に立派だ)、行って栗原氏にもすでに刊行していた前半部批判の第30号を進呈し、この第31号も版元宛に送っておいた。もちろん私はもうすっかりオトナなので、イベント後の交流会でも、多少の批判は織りまぜつつも、両氏とは終始なごやかに歓談した。それにいくら“徹底批判”的な内容であれ、森氏や栗原氏の著作をきっかけとして“アナキズム”に関する議論が多少なりとも巻き起こることは、森氏や栗原氏にとっても望むところであるに違いないと私は思っている。願わくば、我々かにの批判をいくらかでも汲んで、今後もう少しマシな“アナキズム”論が展開されんことを……。

第31号の“コンテンツその2”は、これまた読書会の“完全再現”で、しかしこっちは“検閲シリーズ”ではなく、読書会のもともとの主旨である、私が個人的に勝手にそう呼んでいる“日本3大過激老人”つまり?秀実・笠井潔・千坂恭二の3氏の著作を丹念に読む“通常モード”のもので、?秀実『1968年』(ちくま文庫・2006年)がテキストである。2月から続けていて、4月9日の第4回読書会で第4章および第5章を熟読して、ひとまず『1968年』を消化した。

とにかく“新書”にあるまじき難解さで、当事者世代のしかもほんのひと握りを除いては、たぶん私が“68年”については最も詳しいと自負しているんだが、その私でさえちゃんと理解できない箇所がところどころあるぐらい難攻不落のチョー難解本なのだ。アマゾン・レビューでも、単に少しも読解できてない半端インテリどもによる見当違いな“批判”が並んでいる。

しかし今回の読書会で、実は私はこの本を通読するのはこれでたぶん10回目とかなんだが、インテリ右翼・藤村修氏の助力を得られたこともあって、ついにほぼ理解するに至ったと思う。

“コンテンツその1”の内容紹介に分量を割きすぎたし、こちらは1ヶ所だけ引用しておこう。私の読書会が、いかにテキストを“丹念に”読むものであるか、この箇所からも伝わるだろう。

藤村 ……286ページに出てきた“たとえ”は面白かった。連合赤軍の“同志粛清”について、「『企業戦士』がセミナーで過労死したようなものだ」っていう(笑)。たしかにそうだよな。“あさま山荘事件”はまがりなりにも“武装闘争”だろうけど、“同志粛清”は、その武装闘争の“準備”としての訓練過程で起きたことだもん。

外山 だから仮に“あさま山荘”での銃撃戦が例えばお粗末すぎたというんで“武装闘争には展望がない”って反応になるなら合理的な反応だけど、銃撃戦はむしろ当時の新左翼活動家やシンパの多くには“よくやった!”と好評だった。その後で“リンチ殺人”が発覚して“武装闘争はダメだ”という雰囲気がバーッと拡がって、新左翼運動は一気に停滞する。それは「トンチンカン」な反応だ、という話ですね。……287ページに、華青闘告発以降に「革命党派のおちいったディレンマ」という言葉が出てきます。「それは、第四章で述べたような偽史的想像力が爆弾で乗り越えようとしたディレンマであり、なおかつ、それが囚えられたものでもある」とありますが、そのちょっと後に「武装蜂起を謳う党派が、その手前にとどまりながら『暴力』を実践するアイロニカルな方途」という云い方があり、さらに288ページ1行目には「『壁の前』での擬似戦争」という云い方もされている。“壁”を越えようとすることは、華青闘告発以後、もはや禁欲しなきゃいけないことになってるわけですよ。にも関わらず、グラムシ主義に転換することもできなくて、レーニン主義的な“武装闘争”を云い続けなきゃいけない。その結果、「『壁の前』での擬似戦争」を延々と続けることだけが唯一可能なこととなって、“内ゲバ”も“爆弾闘争”も実はそういうことだったんだ、と?さんは指摘しています。

で、赤軍派の創設メンバーの1人である花園紀夫が、「千尋の谷があると。こっち側の崖から向こうの崖まで一メートル五〇センチだと。普通幅跳びではね。二メートル、跳べると。そしたら、誰でも、こちらから向こうまで跳んで渡れるんですよ。だけれども、千尋の谷があるわけです」(296ページ)と云ってて、?さんは、花園紀夫が云ってるのは、赤軍派の残党グループである連合赤軍での“同志粛清”は、「跳べる距離でありながら、指導者の森恒夫は『ちょっと待て、跳ぶ訓練が必要だ』と言って躊躇し、部下たちを過労死にいたらしめた」ということだと註釈してる。躊躇せずに跳べばよかったんだ、ということです。もちろん?さんは、花園紀夫のこういう「決断主義」に賛同しているわけではない。というのも、華青闘告発以後は、その“跳ぶ”ことが禁欲されなきゃいけなくなった、というのが?さんの立場であるはずですからね。おそらくそのためもあって、最後の298ページの最後の段落、つまりこの本全体の締めくくりの一文が難解きわまりないことになってる(笑)。

まず298ページの2行目から、花園紀夫の“千尋の谷”の例えを踏まえて、「二メートルを跳べる『革命』の力量があるにもかかわらず、それが千尋の谷であるために、一メートル五〇センチの幅の前で躊躇している」のが我々の現状である、と。しかし、「われわれの潜勢力にとって、本当は、五〇センチの差異など存在しない」、つまりそもそも2メートルを跳ぶ力量があるんだから、50センチの差異など何ら気にする必要はなく、ただ思いきって跳べばいいだけの話であるかのように思える、と。もしグラムシ主義者であれば……。

藤村 跳ぶ必要もない。

外山 そうですね。つまり「『壁の前』での擬似戦争」それ自体が不要になる。しかしレーニン主義者は跳ばなきゃいけない。?さんはおそらくレーニン主義者であり続けようとしていて、一方で華青闘告発以後は、跳ぶこと自体は禁欲しなきゃいけなくなってることも分かってるわけだ。じゃあ何ができるのか、という困難な問題に直面して、それで最後の段落のこのグネグネと論旨の掴みにくい文章になってるんだと思う。

この段落は4つのセンテンスで成り立ってるけど、結論はそのうち2つ目の、「おそらく、今できることは、五〇センチの差異は存在しない、われわれは谷を跳びうる潜勢力があると言い続けうるための、その力を養うこと(だけ)だろう」ってセンテンスですよね。ここで「五〇センチの差異」というのは、華青闘告発が突きつけてきた、“本質主義的”なマイノリティ問題、別の云い方では例の「フェティッシュのような『もの』」を象徴してるわけですが、そういうものがグラムシ主義への転換を必然化し、我々に跳ぶことを躊躇させている。しかし一方で、そんなものは存在しないはずだし、我々は跳ぶことができるはずなんだ。

この一文のねじれ具合というのは相当なもので、つまり「今できること」は、「谷を跳ぶことだ」とは書いてないわけです。「谷を跳ぶことだ」がまず「谷を跳びうることだ」と変換されて、さらに「谷を跳びうる潜勢力があることだ」、「谷を跳びうる潜勢力があると言うことだ」、「谷を跳びうる潜勢力があると言い続けることだ」、「谷を跳びうる潜勢力があると言い続けうることだ」、「谷を跳びうる潜勢力があると言い続けうるための、その力を養うことだ」、そしてダメ押しのように「谷を跳びうる潜勢力があると言い続けうるための、その力を養うこと(だけ)だ」となってて、さらに云えば「力を持つ」とかではなく傍点つきの「力を養う」で、つまり何段階も引き延ばされてますよね。

E氏 ほんとだ!

外山 この、異様なほど“持って回った云い回し”が何を意味しているのかってことです。必然性があってこういう云い方になってるはずなんですよ。

藤村 革命をやろうと思えばできるはずだ、なぜなら目の前には1メートル50センチしかなくて、我々はそもそも2メートルを跳べるんだから、ということでしょ。だけどみんなグラムシ主義に陥っていて、跳ぼうとしない。そういう状況にあって、“跳べるんだ”と云い続けなきゃいけないってことじゃないの? そしてそういうことをやったのは吉本隆明ですよ(笑)。みなさんは何か堅牢なものであるかに思い込んでいるんでしょうが、国家というのは実は“幻想”なんですよ、と云い続けたんだもん。

外山 そういうことであれば、「谷を跳びうる潜勢力があると言うことだ」とか「谷を跳びうる潜勢力があると言い続けることだ」ぐらいのレベルで済むはずなんです(笑)。でも「言い続ける」で止まってなくて、「言い続けうる」、さらには「言い続けうるための、その力を養うこと」とかって引っ張ってるでしょ。

藤村 たしかに「言い続けうる」になった時点で吉本は消えるか……。

外山 でまあ、ぼくの結論を云うと、これは?さん本人にも確かめて、“まあおおよそ、そういうことです”という返答をもらってるんですけど(笑)、要するに「今できること」は“党建設”だけなのだ、って云いたいんだと思う。“党”が存在することによって、我々は“跳べる”と「言い続ける」ことができる、つまり「言い続けうる」わけです。「言い続けうるための、その力」というのは、だから“党”の力ですよね? それを「養う」っていうんだから“党建設”ということになります。しかも「(だけ)」って書いてあって(笑)、したがってまとめると、我々に「今できること」は“党建設だけ”ってことになる。もちろんその前後はさらに「おそらく……だろう」で挟まれてるんだけどさ(笑)。

 

紙版『人民の敵』におけるこの“読書会実況中継”シリーズは、なかなかの好企画なのではなかろうか? 向学心のない諸君から“高い!”とさんざん云われ続けている紙版『人民の敵』だが、これを読めばほとんど読書会に参加しているのと同じ体験が可能なのだ。

それぞれの読書会冒頭の、“趣旨説明”的な前置き部分をまずは読む。するとそのうち、例えば第30号の栗原康『現代暴力論』読書会であれば、「(「はじめに」黙読タイム)」との記載が出てくるから、『人民の敵』は脇に置いて、『現代暴力論』を手にとって「はじめに」の部分を読む。読んだら『人民の敵』に持ち替えて、「はじめに」部分についての議論を読む。やがて「(「第一章 国家の暴力」黙読タイム)」との記載が出てきたら、また『現代暴力論』に持ち替えて第1章を読む……ということを繰り返せば、それは、福岡でしかおこなわれない外山恒一主催の読書会に参加しているのとほぼ一緒なのである。

福岡までの往復交通費と、紙版『人民の敵』の購読費用とを勘案してみれば、“安い!”ということになるに決まっている。