『ゲンロン』 「昭和批評の諸問題 1975-1989」を読む(1) ・・・批評シーン主流派“軟弱ヘナチョコ文化人”どもの歴史アナロジーを検閲する


ゲンロン「昭和批評の諸問題1975-1989」を読む
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ゲンロン「平成批評の諸問題1989-2001」を読む
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ゲンロン「平成批評の諸問題2001-2016」を読む
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 前口上。

 紙版『人民の敵』の購読者がちっとも増えない。そりゃ“高い!”というのは分かってるが(実際には“実質千円”なんで高くはないんだが、“同好の士”を身の回りに数名程度も探し得ない、行動力皆無な者にはそう感じられるのだろうことは分かる。紙版『人民の敵』は、行動力のある者は行動で、ない者はせめて金銭的に私の活動を支えなさい、という主旨の冊子なので、今後もそこらへんは改めるつもりはない)、毎号こんなに面白いんだから、1億人もいりゃ何十人かは購読者も現れそうなものなのに……。

もっとも、実際どの程度のものが載っているのか、とりあえず5千円を出してみなきゃ分からないわけで、そこで躊躇するのかもしれない。そこで今後は、紙版『人民の敵』に載せているのと同じ種類のものを、このweb版『人民の敵』にもたまに掲載していこうと思う。もちろん紙版に載ってるのとは違うコンテンツである。紙版用に作るコンテンツと同様のものを、web版用に別途作るということである。

紙版には最近、福岡で主催している読書会での議論を全編書き起こしたものをよく載せている。読書会は、通常はスガ秀実・笠井潔・千坂恭二という私が個人的に“日本3大過激老人”と呼んでいる方々の文章をテキストに使用しているが、たまに主旨を変えて、革命的な私と違って革命的でないために大手出版社からバンバン著作を出せている同世代以下の“軟弱ヘナチョコ文化人”たちの文章をテキストに使用し、その軟弱ヘナチョコぶりを挙げつらって嘲笑する、題して「“検閲”読書会」というのもやっていて、第29号では森元斎『アナキズム入門』(ちくま新書・2017年3月)、第30号および第31号では栗原康『現代暴力論』(角川新書・2015年8月)を餌食とする読書会の全編書き起こしを掲載した。web版用にも基本的にはそういうコンテンツを作って、それら流行文化人たちの個々それぞれを私がどう見ているか、広く提示する目的も兼ねたい。

まず今回の第1弾は、6月4日におこなった読書会の書き起こしである。テキストには、東浩紀が中心となって刊行している雑誌『ゲンロン』創刊号(2015年12月)に掲載された、東浩紀・市川真人・大澤聡・福嶋亮大の4名による座談会シリーズ「現代日本の批評」の第1回「昭和批評の諸問題 1975-1989」を使用した。紙版に掲載しているコンテンツは毎号、400字詰原稿用紙換算で200枚前後という読み応え満点な分量で、100枚前後のものが2本とか、少なくとも数十枚分のものが3本とかである。今回は、紙版に載せているのと同様のものを、という主旨なので当然長い。原稿用紙約130枚分である。7回ぐらいに分けて掲載することになると思う。なお3回にわたっておこなわれた東らの座談会は、こちらも3回にわたって詳細に読む読書会を開催し、すでに6月11日には『ゲンロン』第2号掲載の「平成批評の諸問題 1989-2001」を読んでおり、6月18日に引き続き『ゲンロン』第4号掲載の「平成批評の諸問題 2001-2016」を読む予定で、それらも全編書き起こして、web版用のコンテンツとするつもりである。

今回の書き起こしは、内容的には紙版に掲載されるものの平均値ぐらいの“面白さ”である気がする(参加者の、福岡“外山界隈”が誇る在野のインテリ、天皇主義者で中島みゆき信者の藤村修氏と、私が主催する革命結社「九州ファシスト党〈我々団〉」党員の東野大地同志は、紙版の対談や座談会の常連でもある)。紙版の定期購読の参考とされたい。

(※初回掲載分のみやたら長文、次回掲載分からは今回に比べたらだいぶ短く切っていきます)

 


 

外山 常連参加者の方はご承知のとおり、この読書会では、普段はスガ秀実・笠井潔・千坂恭二という、ぼくが個人的に“日本3大過激老人”と呼んでいる方々の著作や雑誌掲載論文などをテキストに使用しているんですが、たまに趣向を変えて、昨今のいわば“メインストリーム”の若手批評家どもが“外山恒一抜き”で一体何を論じ合っておるのか、ってことにもまあ目配りというかチェックというか、しなきゃいかんだろうということで、時々そういうことも“検閲読書会”と称してやってます(笑)。で、今日はその“検閲”モードの読書会なんですけど、もちろん最初から過剰に批判的になる必要はなく、基本的にはニュートラルに、“客観・中立・公正”を心がけて読んでいくつもりです。

今日のテキストに使う座談会が載っている『ゲンロン』という雑誌は、どう説明すればいいんでしょうね? 東浩紀という、ぼくや藤村君(常連参加者の藤村修氏。天皇主義右翼。反原発派で、2014年から2016年にかけて「右から九電前抗議」を主宰していた。外山とは93年頃からの付き合い)と同世代の、向こうが1コ下かな、とくに00年代には思想界で“独り勝ち”状態とまで云われてた人がいまして、今でも70年前後生まれ以降の世代の知識人たちの1つの中心であり続けています。その東浩紀が、北田暁大という、やはり00年代のとくに後半には東浩紀に次ぐぐらいの若手知識人の代表格だった人と一緒に編集・発行していた『思想地図』という雑誌がありまして、(本棚から取り出して奥付を確認し)2008年から2010年までの間に5号、NHKブックスから出てます。その後も『思想地図β』というのが出てたよね?

藤村 たしか3号まで出てたと思う。いや、4号までか。4号が第1弾と第2弾の2回に分けて出てる。

外山 ぼくは2号までしか持ってませんが、創刊号が2010年12月、第2号が2011年9月で、つまり2号目は“3・11以後”に出てて、特集タイトルもそのものズバリ「震災以後」となってます(第3号は2012年7月 第4号の1が2013年7月、2が同11月に出ている模様)。つまり2008年以降、東浩紀はずっと『思想地図』という雑誌をやってたわけだけど、『ゲンロン』はその“後継誌”って理解でいいのかな? 創刊号が2015年12月発行となってて、『思想地図β』からちょっと間があいてるけど、この中間の時期に〝ゲンロンカフェ〟ってのを始めたの?

藤村 そのはずです(2010年4月に『思想地図β』の版元として立ち上げられた「合同会社コンテクチュアズ」が、2012年4月に「株式会社ゲンロン」に社名変更、『思想地図β』と『ゲンロン』との“中間の時期”ではないが、2013年1月に五反田にイベントスペース「ゲンロンカフェ」が開設されたようである)。「ゲンロンカフェ」がオープンする以前から“友の会”というのが作られてて、会員登録するとメルマガが送られてきてたんですけど、それは今でも続いてますね。

外山 「ゲンロンカフェ」というのは、行ったことないしよく知らないけど、「ロフトプラスワン」のもうちょっと高級な感じのもの?(笑) そこを拠点として新雑誌『ゲンロン』が刊行されるようになった、と。

藤村 おおよそそういう理解でいいと思います。ゲンロンの社員の中には、ロシア文学者の上田洋子とかをはじめ何人かの知識人・文化人もいますけど、実質的には東浩紀が運営してるものと考えていいでしょう。

外山 『ゲンロン』もすでに4号まで出てて、今回調べてみると、それ以降はキンドル版しか出ない形になってるみたいだね。

藤村 いや、あれは“友の会”に毎月送られてくるメルマガを、べつに会員でない人でも読めるようにしたものなんです。『ゲンロン』の第5号は近々ちゃんと紙で出るみたいですよ。

外山 藤村先生は“ゲンロン友の会”の会員でいらっしゃるようで……(笑)。

藤村 大変低いステージの会員ではございますが。

外山 “在家信者”レベル、と(笑)。……で、今日は『ゲンロン』創刊号の特集「現代日本の批評」の中にある座談会をこれから読むんですけど、75年以降の日本の言論状況、批評シーンの推移・歴史を振り返りながら再検証する主旨のようで、75年から89年までを対象にいろいろ論じ合ってるようですね。89年以降については『ゲンロン』第2号、第4号に続編があって、それもこの読書会で次回以降、読んでいくつもりです。今日読む座談会のタイトルは「昭和批評の諸問題 1975-1989」となってて、これは明らかに、まあ座談会の中でも話題に出るんでしょうけど、かつて『批評空間』という雑誌で柄谷行人、蓮實重彦、浅田彰といったメンツでおこなわれて、単行本(『近代日本の批評』全3巻・講談社文芸文庫)にもなってる、「明治批評の諸問題」、「大正批評の諸問題」、「昭和批評の諸問題」という、たぶんそれなりに有名な座談会がありまして、それを意識しているというか、引き継ごうということなんでしょうね。柄谷たちがその座談会で扱った以降の時代について、同じようなことをやろうということでしょう。

座談会の前に、“基調報告”というのを座談会メンバーの1人である大澤聡って人が書いてるようですので、ぼくらもまずこれを読みます。この人の名前はつい最近、まさに発行したばかりの(紙版)『人民の敵』第32号に載せた、ぼくとスガ秀実との対談の中でスガさんが言及してて、それでぼくも初めて存在を知りました。雑誌メディアなんかの変遷について、明治・大正あたりまで遡って専門的に研究してる人らしいです。で、かなり若いと聞きました。

藤村 そんなに若い人だという印象でもないけど……(『ゲンロン』の執筆者紹介ページを見て)あ、でも78年生まれと書いてある。昭和53年ですから、ぼくらよりずっと若いな(笑)。

外山 8歳違いですね。(手近にあった“誰と誰が同い年か?”の独自研究ノートをチェックして)椎名林檎とかと同い年です(笑)。

藤村 「近畿大学文芸学部講師」とあるから、(2015年まで近大で教えていた)スガさんとも面識があるのかな?

外山 どうでしょうね。そうかもしれません。

藤村 他の座談会メンバーは、立教大で教えてる福嶋亮大って人が81年生まれで……。

外山 さらに若いのか。鳥居みゆきとかと同い年(笑)。星野源もそうみたいですね。我々の界隈では、「素人の乱」の二木信が81年生まれです。

藤村 市川真人って人は早大の准教授で、71年生まれ。

外山 東浩紀と同じ、と。……今チラッと見たらやっぱり言及してあるようだけど、スガさんによれば、大澤聡って人は最近は70年代の“総会屋雑誌”について研究しているらしく、スガさんも当時そういう雑誌に書いてた新左翼の“若手論客”の1人だったわけだし、「あんなものが今や“研究”の対象になるのか!」と感慨深げでした(笑)。

じゃあ、どうしようかな。全部で第5節までありますね。“はじめに”的な部分もあるようだし、真ん中で切って、まずは冒頭から第2節の最後まで読みましょうか。それでは各自、黙読してください。

 

(大澤聡「[基調報告]批評とメディア──「史」に接続するためのレジュメ」前半・黙読タイム)

 

外山 よろしいでしょうか? それでは何かあればどうぞ。単に“この用語の意味が分からない”とか“この漢字が読めません”というレベルのことでもかまいません(笑)。

参加者A(40代女性) 39ページの上段から中段にかけて、「批評家たちのシミュラークル化がメディア上で進行する」とありますが、“シミュラークル”って何ですか?

外山 えー、どう説明すればいいんでしょうね。“ポストモダン思想”の基本的なキーワードの1つではありますが……。

藤村 ボードリヤールの用語で、ここでは“まがいもの化”ぐらいに理解しておけばいいんじゃないかな。よく云われる説明としては、例えば自動車を買うとして、自動車というのは本来は“人やモノを速く遠くまで運ぶための道具”なんだけど、現代社会においては、多くの人はそういう自動車の本来的な機能の部分であれこれ吟味してどの自動車を買うのかを決めるわけではなく、その車種が我々に与えるイメージというか、その車種に乗ってるとカッコいいとか社会的地位が高いと思われそうだとか、あるいはテレビCMの印象が良かったとか、つまり自動車の“実質”の部分ではなく表層的な“イメージ”を消費するようになっている、という話で……。Aさんが引用した一文の直前にも「『誰が誰やらわからない』、その言論状況は一九八〇年代前半の記号論的な差異化ゲームを原動とする高度消費社会に呼応してもいた」とありますが、批評家という存在もまた、その人が何を述べているかではなく、いろんなメディアに登場することで形成されるパブリック・イメージみたいなもののほうが重要になってくるという、そういう事態について云ってるわけです。

外山 この“80年代前半”なら、例えば浅田彰のあの……。

藤村 いかにも“スキゾ・キッズ”っぽい……(笑)。

外山 というか、“著者近影”とかの写真のあの、まさに“哲学青年”っぽい……。

藤村 線の細い、可愛い顔をして、でっかい黒ぶちメガネで……。

外山 浅田彰が主張してる“内容”よりも、そういう“キャラ”が消費されたり、あるいは支持されたりするって事態だね。藤村君が云った“自動車”にしても、そもそも似たような性能のものが膨大な車種で目の前に並べられてるんだし、大雑把な利用目的はもちろん前提になるにしても、最終的には“機能”よりも“デザイン”とか広告で作られた“イメージ”とかで決めることになる。……“シミュラークル”は当然、“シミュレーション”と同じ語根の言葉です。つまり何か“中心”みたいなものがない、個別のモノはただ他のモノとこういう点で違うといった“差異の体系”の中の1点を形成するにすぎないような存在の仕方をするという、“高度消費社会”のしくみを、ボードリヤールという“フランス現代思想”の代表格の1人が、“シミュラークル”とかいろんな言葉を駆使して解明しようとした。“思想家の言説”というのもそういう現代社会においては他の諸々と同様の“商品”でしかなくなるんだし、当時たくさんの人が“浅田彰の本”を買ったのも、例えば戦後すぐの時期に出たようないかにも重苦しい“哲学書”とかではなく、メディア上で“軽やかな今ふうの若手思想家”として騒がれてる人の本なんか買っちゃうオレってカッコいい(笑)、みたいなノリでそうなったにすぎないって状況ですね。まあ“シミュラークル”も含めて、ボードリヤールがどういうことを云ってたかについては、笠井潔の『ユートピアの冒険』(毎日新聞社・90年)の第5章で分かりやすく説明されてます。

大澤聡が説明しているとおり、80年代前半に“ニューアカ・ブーム”というのがあって、とくに浅田彰の『構造と力』(勁草書房・83年)という本が、“哲学書にあるまじき”レベルでベストセラー化して、その“ブーム”が始まるわけです。それで単に狭い“思想界”の範囲だけにとどまらず……まあそうだな、将棋のルールとかよく知らない人でも“羽生名人”のことは大体みんな知ってるし、キャラのイメージも持ってるでしょ(笑)。それと同じように、とくに“思想”とか知らないし興味もない人たちの間にまで、浅田彰という“若手思想家”の存在が広く知れ渡るような、それぐらいの大ブームで、浅田彰はまさに“時の人”になりました。その“浅田彰現象”を牽引力として、その近傍にいた、『構造と力』で紹介されてる“フランス現代思想”に近いことを云ってると見なされた他の知識人たちも脚光を浴びて、その中には柄谷行人や蓮實重彦といったかなり年長の人たちも含まれますけど、とにかく“思想家”たちが一般向けのさまざまなメディアに出まくるという不思議な光景が、今から30年ほど前のこの日本で展開されたんですね。

40ページの中段から下段にかけて『朝日ジャーナル』についての説明もあります。『朝日ジャーナル』は、天下の朝日新聞社が発行してた堂々たるメジャー週刊誌ですが、60年代以来(創刊は59年)、過激派学生たちの動向に完全に同伴して、新左翼学生運動の一種の機関誌みたいな役割を果たしてたのが、70年代をとおして学生運動が退潮して売上がパッとしなくなり、それで84年1月に新編集長に抜擢された筑紫哲也が誌面の全面刷新を図って、“軽チャー路線”と呼ばれる、「ポストモダン+サブカル路線へと急旋回」(40ページ)することがおこなわれた。80年代前半当時の“知的な若者たち”の興味関心に完全に迎合したわけです。「インタビュー連載『若者たちの神々』(一九八四年~八五年)が典型だ」とあるとおり、“ニューアカ&サブカルチャー”全盛だった当時の雰囲気は、全4巻で単行本化されてる『若者たちの神々』(新潮文庫)を読めば分かります。・

藤村 そもそも“批評”とは何か、ってところから議論がおこなわれてるけど、それは基本的には“アカデミズム”が担う領域ではなく、かといって“ジャーナリズム”が全面的に担うものでもなく、何かを対象として──それは多くの場合、最初は“文学”を対象とする“文芸批評”が中心だったんだけど、やがて対象は拡大して、“社会”や“世相”、“世界”、それら諸々に対する自分なりの“態度”を文章化して表明する営み一般が“批評”と捉えられるようになってきた。で、その時に、“批評家”である小林秀雄が本居宣長について論じるのと、アカデミズムの世界に身を置く“研究者”が本居宣長を論じるのとでは全然違って、研究者は、本居宣長の遺したテキストに厳密に添って、その一言一句について精密な分析をしなきゃいけないんだが、小林秀雄だったら、「 批評とは畢竟、己の夢を懐疑的に語ることではないのか!」(1929年のデビュー作「様々なる意匠」)という有名な言葉もあるように、ある種の自己批評を加えつつ、本居宣長のテキストを“自分は”このように読み込んだ、ということを書くのが“批評”である、と。したがって、そこでは“学問的な厳密さ”というのは必ずしも要求されない。だから当然、“批評”というのは基本的には“大学の先生”たちが担うものではなくて、在野の人間が担うものであるし、もう1つには、“批評”というのはそれを書く人間が“自分の価値観”を晒す行為でもある。“自意識”を晒す、と云ってもいい。アカデミシャンの“研究”では、“自分”なんか晒したりしないよね(笑)。

外山 最近は栗原康みたいな人もいるけど……まあいいや(笑)。

藤村 アカデミシャンの書いた“研究”の文章だと、文末に“註”がブワーッと並んでるでしょ。“批評”というのは、本来そういうものとは違う。
で、38ページに「昭和期の大部分、批評空間の中心には文学が鎮座していた。圧倒的に自明のものとして」とあるとおり、日本の“批評”というのは“文芸批評”として始まり、以後ずっと、長らく“文芸批評”こそが“批評”というものの中心だったわけです。よく云われるのは、日本の場合は明治以来、“新しい思想”が次々と海外から輸入・紹介されるようになるけど、それらの思想が欧米でそもそも登場してきた文脈と、日本がその時期その時期で置かれてる状況とは必ずしもそぐわないわけで、そういうしょせん“外来物”である“思想”というものを血肉化する努力が必要とされる。外来の思想を日本人にもなじむ形に加工しなきゃいけなかったわけだけど、やっぱりアカデミシャンにはそういう役割は果たせないんだよね。そういう営為を担ってきたのが“文芸批評”なんだ。

外山 “文芸批評”が“批評”の中心であり続けたというのは、日本に特殊な現象なの?

藤村 いやあ、それはオレにもよく分からないんだけど、なんとなく直感的に、後進国ではそうなりそうだな、という気はする。柄谷行人も云うように、日本の近代化を大きく担ったものの1つに、やっぱり“文学”があるわけでしょ。

外山 本当に論じたい対象が何であれ、“政治”や“社会”を論じたいんだったとしても、後進国にはそもそもそういう時にふさわしい“文体”の形式が存在してなくて、まずはそれを確立する作業が必要だもんね。たしかにそれは“文学者”たちの仕事になるかもしれない。

藤村 大澤さんの書き方によれば、1933年から36年までが、プロレタリア文学運動が盛んな……。

外山 いや、プロレタリア文学運動が壊滅した“後”の状況ってことだね。20年代後半から盛り上がってたプロレタリア文学運動が、33年あたりで壊滅するわけだ。小林多喜二が特高の拷問で“虐殺”されたのも(33年2月)、獄中共産党幹部の例の“転向声明”(佐野学・鍋山貞親「共同被告同志に告ぐる書」33年6月)が出て“転向の雪崩現象”が起きるのも、たぶんこの頃でしょう。

藤村 そうか。読み違えてた。

外山 で、今度は“36年”以後になると、日本そのものが戦時下・非常時って状況になる。だから“33年から36年まで”というのは、その2つの“政治優位”の時代に挟まれた特殊な時期で、それがちょうど日本文学史の常識的な概念として“文芸復興期”と呼ばれてる時期とピッタリ重なってる、という話ですね。

藤村 なるほど。で、その時期に“文芸批評家”も続々と登場して、大澤さんは、「ランダムに、春山行夫、深田久弥、古谷綱武、矢崎弾、唐木順三、藤原定、板垣直子、保田與重郎といった」人たちが「一九三三年から三四年にかけてこぞって批評活動を本格化した」(37ページ)と書いてる。ここに出てくる名前をオレは、唐木順三と保田與重郎ぐらいしか知らんけどさ(笑)。

外山 ぼくも“文学史”に詳しいわけではないし、ウロ覚えで云うんだけど、なんでこの時期に“文芸復興”ってことになるかといえば、プロレタリア文学が文学シーンを席巻してる時期ってのは、マルクス主義においては諸個人はマルクス主義に基づく革命運動あるいはマルクス主義の“党”に全面的に従属しなきゃいけないわけだし、“文学者”にも当然それは要求されて、そういうものから“自立”した“個人”の立場がどうこう云うような奴は“反革命”ですよね(笑)。文学者たちはそういう傾向にイヤイヤ従っていたのではなくて、多くの文学者たち自身が“マルクス主義”という強烈な“新理論”に完全に魅了されてたんだし、納得ずくで、自ら進んで“政治に従属”してたわけですよ。それが33年前後の“プロレタリア文学運動の壊滅”で、みんな一時の夢から覚めたようになって(笑)、マルクス主義に基づくプロレタリア文学理論つまり“社会主義リアリズム”の重圧から解放されて、“個人”の文学を一斉に謳歌し始める、と。それで“文芸復興”ってことになる。しかし3年ぐらい経つと今度は戦時体制の強化という逆側からの締めつけによって、文学者たちは萎縮させられていく、っていうね。

藤村 プロレタリア文学の理論って典型的な、“文学は政治に奉仕しなければならない”っていう話だもんな。たぶんこの『ゲンロン』の座談会シリーズでは、それと同じような現象は日本の文学史・批評史の中で何度も繰り返されている、という議論になるんだと思う。

外山 ……急に批判的なことを云いますが(笑)、やっぱり前回(4月30日)の読書会でスガさんの『タイム・スリップの断崖で』(書肆子午線・2016年)、とくに宮本顕治について書いてた文章(「デリダが亡くなった時、宮本顕治について考える」04年)を読んだ後にこういうものを読まされると、甘いなあって感じがするんだ。37ページ下段に「文芸復興期の覇者は小林秀雄だった」って書いてあるでしょ。「異論はないはずだ」ともあるとおり、教科書的にはまったくそのとおりなんだろうけど、スガさんのあの文章は、“ほんとにそういう解釈でいいのか?”という問題提起だったじゃん。そもそもナントカ新人賞(雑誌『改造』懸賞論文)で宮本顕治の「『敗北』の文学」が1位を獲って、その時の2位が小林秀雄の「様々なる意匠」で、どっちもそれで文壇デビューするわけだけど、とにかくそういう、“小林秀雄よりスゴい”存在として、宮本顕治は颯爽と世の中に登場してきたという事実がまずある。33年頃を境にプロレタリア文学運動は急速に崩壊して、すでに共産党のトップになってた宮本顕治も逮捕されて(33年12月)、“獄中の人”になって世間の表面からは姿を消すわけですけど、実はずーっと獄中で“非転向”を貫いてて、やがて戦争が終わって釈放されると、宮本顕治をはじめ“死の恐怖にも打ち克った”共産党の“獄中非転向”の幹部たちは圧倒的な権威を得て、それこそ文学の世界だって、新左翼が登場するまでは再びまた共産党の完全な支配下に置かれることになるんだもん。たしかに表面上は、小林秀雄を“覇者”とする“文芸復興”の空騒ぎが演じられるんだろうけど、真の覇者、“隠れた覇者”は、実はまさにこの時期に、10余年後の“非転向神話”を確立するその緒についていた宮本顕治だったかもしれないわけだ(笑)。

藤村 ここで書かれてる文脈でも、まずプロレタリア文学が圧倒的に優勢な時期があって、それが弾圧で崩壊して“文芸復興期”が来て、そこで小林秀雄が覇権を確立していく、ということなので、そもそもの“覇者”はやっぱりプロレタリア文学だった、ということでもあるよね。“文芸復興”というのは、要はプロレタリア文学運動へのアンチテーゼとして起きたようなもんでしょ。

外山 明治以来、遅れた日本のウブな文学者たちが、自分たちも“近代的自我”とやらを確立しなきゃならんってことであれこれと試行錯誤を続けてたところに、“マルクス主義”という壮大な、しかも“近代思想”の極北みたいな思想体系の存在が知られるようになって、文学者をはじめ多くのインテリたちはそれに一発でヤラれちゃう、と。それは日本のインテリたちにとって、目もくらむような鮮烈な体験だったんだけど、ファシストの私に云わせれば“文学者”なんてしょせんサブカル連中だし(笑)、やっぱり“自由”がないのは内心どこかイヤだったんだな。そしたらそのうち、自分たちで打倒したんじゃなくて国家権力の側がマルクス主義勢力を弾圧して潰してくれたもんで、“わーい!”ってことで、これ幸いと“文芸復興”だとか何だとか、浮かれ騒ぐわけだ。だけどしょせん、共産党にも抵抗できなかったようなヒヨワな文学者どもが、まして“時局”に抵抗できるわけなくて、“短い春”はいとも簡単に“終了!”と(笑)。

藤村 ……座談会の本題である“75年以降”の話に戻ると、さっきから云ってる“批評=文芸批評”って図式が成立しなくなるのが70年代半ばである、という認識が書かれてる。

外山 うん。で、“70年代”というのが“大正時代”にアナロジーされてるよね。40ページ上段の5行目に、「良かれ悪しかれ、七〇年代は『大正的』ではある。大正は激動の明治/昭和の狭間に位置する」って書いてある。つまり70年代というのは、“学生運動”的なものが一段落したという時代である、と。プロレタリア文学が壊滅したように学生運動が壊滅して、学生運動的なものと密接に関係していた“批評”というものも、それによって足場を失うようなことになった、ということでしょう。で、かつての文芸復興期のように“現代思想ブーム”、“ニューアカ・ブーム”が……って、何かおかしいぞ。文芸復興期は昭和10年前後で、大正時代じゃないよね(笑)。

藤村 うん、昭和10年前後。

外山 ぼくが何か誤読してるかな? えーと……「七〇年代は『大正的』ではある」というのは、大正が「激動の明治/昭和の狭間に位置する」からだよね。しかし2つの“政治優位の時代”の「狭間に位置する」という意味であれば、“大正時代”ではなく“文芸復興期”にアナロジーしなきゃいけないはずだよね。大澤聡は、“文芸復興期”については“ニューアカ・ブーム”と重ねようとしてるように思えるけど……あ、やっぱりそうだ。40ページ下段に「ここに、ひとつの仮説的な見立てを導入しよう。すなわち、ニューアカはぴたり五〇年前の文芸復興(一九三三~三六年)の反復であった、と」って露骨に書かれてた(笑)。

東野 70年代が“大正的”であるというのは、“教養主義的”だという意味なのかな?

外山 いや、それはさっきから云ってるように、“2つの激動の時代に挟まれた時代”という意味でしょう。しかし別のところでは、“文芸復興期”のことを“プロレタリア文学運動の隆盛”と“時局の悪化”という“2つの激動に挟まれた時代”というふうに云ってるように読めるし、そうするとこのアナロジーには齟齬が出てくるというか、端的に破綻してしまわない?

東野 うーん……そんな気もしますね。

外山 もちろんこのテのアナロジーは、イメージしやすくするための方便であって、細かい部分は辻褄が合わなくなっても別にかまわないんだけど、しかしこれは“細かい部分”ではなくて、このアナロジーのかなり根幹に関わる部分だよなあ。

藤村 連合赤軍事件とか反日武装戦線の爆弾闘争とか“中核vs革マル”の内ゲバとかで、マルクス主義とか、それに基づく新左翼学生運動が説得力を失っていくのが70年代で、それを、一時は文壇をほとんど制圧してたプロ文が、弾圧されて崩壊する時期と重ね合わせてるわけでしょ。そういう時代の後に文芸復興期が来る、と。

外山 “70年代”を“大正時代”に重ねてる部分がおかしいんだ。“ニューアカ”を“文芸復興”と重ねるんなら、その前提となる“政治優位の時代”の終焉という現象がまず起きるってことで、“70年代”は“プロレタリア文学運動の崩壊期”と重ねなきゃいけない。で、プロレタリア文学運動の高揚は、“大正的なもの”からの、まさに宮本顕治の云う“野蛮な情熱”による“切断”によって実現されたんだから、“新左翼学生運動の高揚”を“プロレタリア文学運動の高揚”と重ねるんなら、“大正時代”にアナロジーする時期は“新左翼学生運動の高揚”の前に設定しなきゃおかしい。それも簡単なことで、“戦後民主主義の時代”を“大正時代”にアナロジーすればいいだけの話だ。まあ日本共産党的な社会主義リアリズム理論が再び猛威をふるったのはその戦後民主主義期なんで、そこはちょっとアナロジーに齟齬が出るけど、欺瞞的な“大正デモクラシー”の狂躁から我が身を切断して引きはがそうという“野蛮な情熱”によって“プロレタリア文学運動の高揚”がもたらされたように、戦後民主主義の欺瞞を粉砕しようという“野蛮な情熱”によって“68年”という新左翼学生運動のピークがもたらされるんだもん。ぼくのアナロジーのほうが──もっとも、ぼくはこの歴史観にそもそも賛同しないけど、仮にこの歴史観で行くとして──ずっと適切なはずだ。

まあ、アナロジーは破綻してると思うけど、ここまでの文章で説明されてる個々の出来事については、おおよそそのとおりで、それは“教科書的だ”という意味でもあるが(笑)、批評シーンの推移についてよく知らない人は、アナロジーとか、個々の出来事が批評史全体の中でどういう意義を持ってたのかという話とかは無視して(笑)、1933年から36年にかけて“文芸復興”と称される時代があったとか、現象面だけで云えばその「文芸復興期の覇者は小林秀雄だった」とされていることとか、「昭和期の大部分、批評空間の中心には文学が鎮座していた。圧倒的に自明のものとして。ゆえに、批評史もスケッチしやすい。文芸批評史が批評史としてほとんどそのまま通用してしまう。(略)ところが、一九七〇年代半ば以降に相当する批評史は途端に成立困難となる。(略)史的記述の定番が存在しない」という端的な事実とか、70年代半ば以降には柄谷行人って人が日本の批評シーンでは特別に巨大な存在になることとか、「内向の世代」と呼ばれる一群の作家たちが70年前後に登場したんだけど、「これを最後に、文壇から集団的要素が急速に剥落していく」(38ページ)、つまりそれ以降は“何々の世代”と総称されるような文学の“潮流”の存在が指摘されていないこととか、第2節で説明されてるような“ニューアカ・ブーム”のおおよその経緯とか、それらの“事実の羅列”の部分に関しては“お勉強”として素直に受け入れて、知識として身につけるといいでしょう。

藤村 ……この人は“ニューアカ”と“プレ・ニューアカ”を区別してるよね。

外山 うん、「柄谷行人や蓮實重彦、あるいは山口昌男や栗本慎一郎」といった比較的年長の知識人たちが活躍し始めて、「記号論(山口昌男や丸山圭三郎)、都市論(磯田光一や前田愛)、身体論+演劇論(市川浩や渡邊守章、中村雄二郎)、情報論+メディア論(中野収や粉川哲夫)といったトピックが盛りあがりを見せた」、「一九七〇年代中盤から八〇年前後にかけて」の、「構造主義/ポスト構造主義のインパクト(略)に応接する思考が領域横断的に浸潤しつつあった」時期について、それは一種の「現代思想ブーム」とも云えるものであり、やがて起きる“ニューアカ・ブーム”の土台にもなったという意味で「プレ・ニューアカ期」というのを設定してる(39ページ)。

藤村 つまり“プレ・ニューアカ期”を“大正時代”に、“ニューアカ・ブーム”を“文芸復興期”に重ね合わせようとしてるんじゃないかな?

外山 そうみたいだけど、“文芸復興期”の直前に位置してる“プロレタリア文学運動の高揚”に“新左翼学生運動の高揚”を重ねてるわけでしょ。“大正時代”に“プレ・ニューアカ期”を重ねるのはいいとしても、“大正時代”→“プロレタリア文学運動の高揚と壊滅”→“文芸復興期”って順番なんで、そのアナロジーだと“プレ・ニューアカ期”→“新左翼学生運動の高揚と壊滅”→“ニューアカ・ブーム”となるはずのに、実際は“新左翼学生運動の高揚と壊滅”の後に“プレ・ニューアカ期”があるんだから、やっぱり破綻してるよ。……あ、分かった。“2つの激動の時代に挟まれた時代”っていう時のその“1つ目の激動の時代”が、“明治時代”のことなのか、“プロレタリア文学運動の高揚期”のことなのか、箇所によって違うからおかしくなってるんだ。

東野 ……あんまり云っても仕方のない問題だとは思うけど、そもそも“60年代”、“70年代”、“80年代”という区切り方がおかしいんじゃないでしょうか?

外山 うん、まあね。ぼくが『青いムーブメント』(彩流社・08年)で提示した“外山史観”では、仮に10年スパンで区切るとすれば“70年前後”(65-75年)、“80年前後”(75-85年)、“90年前後”(85-95年)って区切るべきで、そっちのほうが現実の“時代の雰囲気”の変化に対応させやすい、ってことをちゃんと説明してる。“外山恒一抜き”であーでもないこーでもないと論じ合って、『青いムーブメント』ぐらい基本文献として押さえてないから、こういう破綻したことを書いてしまう(笑)。荳€

で、そのこととも密接に関連するんだが、最初のページ(36ページ)で実はいきなりぼくなんか引っかかってるんだよね(笑)。中段から下段にかけての一文の中に、見田宗介が云い出したらしい「虚構の時代」というキーワードが出てくる。見田宗介が云い出して、大澤真幸が受け継いで広めまくって、さらに東浩紀が大澤真幸から引き継いでさらに“発展”させていて、今ではもはや、こういった批評シーン主流派の“軟弱ヘナチョコ文化人”どもの(笑)、歴史記述の前提というか共通認識みたいになってしまってるんだ。つまりこれは、“70年頃”、正確には72年の連合赤軍事件ってことになるようだけど、とにかくそこらあたりに時代の大きな転換点、切断線を見出して、戦後つまり1945年からその70年前後までを“理想の時代”、それ以降を“虚構の時代”と呼ぶわけです。“理想の時代”というのは、この現実の世界で実現されるべき何らかの“正義”をめぐって人々が互いに熱く争い合った時代で、それが連合赤軍事件のショックでトドメを刺されてしまい、それ以降の“虚構の時代”には、この現実の社会に対して人々が抱く反感や不全感は、制度の改良とか革命といった方向にではなく、フィクションの世界に耽溺することで解消が目指されるようになって、サブカルチャーが隆盛したりするっていう、そういう話ですね。東浩紀はさらに“95年”に区切りを入れることを提起して、つまりサブカルチャー的な想像力に本気で依拠してしまったオウム真理教が起こした一連の事件のショックで“虚構の時代”も終焉してしまい、それ以降は、もはや人々は“虚構”的な“物語”を求めることもなく、即物的な反射・反応の連鎖を生きるだけの“動物の時代”が始まってる、と云うんだな。……しかしそもそも最初から間違ってる議論なんで、何の意味もないんだけどさ(笑)。

どこが間違ってるかというと、“72年”つまり連合赤軍事件を境に時代が大きく変わった、という認識がそもそも間違ってるんです。時代の区切り目はそんなところにはない。本当はどこで切れるかと云えば、ニューアカ・ブームが失速する80年代半ばあたりで切れます。それまでの間は、連合赤軍事件が起きようが中核派と革マル派がどれだけ殺し合おうが、それ以前の学生運動全盛期からの1つのサイクルが続いてる。だって“68年”に“ノンセクト・ラジカル”の学生たちが打ち出した方向性を、整理して提示し直したのが“ポストモダン思想”なんですから、問題意識の継承の糸は切れてないわけですよ。日本では“68年”の高揚からの退潮期にとくに悲惨な事件が連発したから、表面的にはなんとなく切断されてしまってるように見えるけど、実際には“ニューアカ・ブーム”の時に注目されたポストモダン思想って、フランスの“68年”の経験を言語化したものであって、フランスの“68年”も日本の“68年”もアメリカの“68年”もその他西側先進諸国の“68年”も、ほぼ同質のことが起きたんだから、それを総括するポストモダン思想つまり“フランス現代思想”が、フランス以外の例えば日本やアメリカで流行しても何も不思議ではない。だから日本の“68年”と80年代前半のニューアカ・ブームとの間に決定的な切断線を入れてしまうこと自体が完全に間違ってる。

で、むしろ“80年代半ば”以降に、全体の中では少数派であるとしても“少数派の中の多数派”である“知的な若者”たちの間でさえ、ポストモダン思想のようなものも含めて何も共有されないという異様な時代が始まる。それこそ“動物の時代”と云ってもいいけど、それが始まったのは“95年”ではなくて“80年代半ば”なんですね。ニューアカ・ブームの80年代前半までは、少なくとも“正統派”の“知的な若者たち”の間では、ポストモダン思想であるとか、あるいはYMOとか『ビックリハウス』(雑誌)とかの“サブカルチャー教養”といったものが、ほぼ共有されてたはずです。だから切れ目は、“72年”とか“95年”とかにではなく“80年代半ば”に入れなきゃいけない。この認識が、ぼくが口をすっぱくして云い続けてるのにちっとも共有されないから、東浩紀やそのエピゴーネンたちを含む“軟弱ヘナチョコ文化人”たちはくだらん議論しかできないわけです。

80年代半ば以降は、いま“正統派”の“知的な若者たち”と云いましたけど、その“正統派”ということ自体が成立しなくなるわけですよね。いくら00年代は“東浩紀の独り勝ち”だったと云ったところで、80年代前半に浅田彰が読まれたようには東浩紀は読まれてないはずです。かつて“正統派”の“知的な若者たち”だった層の末裔みたいな部分の内側でだけ読まれたんであって、もはやその層自体が、お互いに没交渉でバラバラに存在してる“タコツボ”の1つでしかなくなってる。今の文系の大学生のはたして何パーセントが“東浩紀”の名前を知ってるんだ、って話ですよ(笑)。もしかしたら“外山恒一”のほうが、まあ“マジメな関心の対象”ではないとしても、“東浩紀”や“柄谷行人”より知られてるかもしれない(笑)。今では東浩紀も柄谷行人も、若者たちのうちのごく一部の、“現代思想マニア”というか“現代思想趣味者”というか、そういう“好事家”に読まれてるにすぎません。しかし80年代半ば頃までは、何らか政治的・社会的あるいは思想的なことに興味を持てば、せいぜい怠惰な性格であるかどうかで多少の差が生じるぐらいで、浅田彰や柄谷行人の存在そのものはそういう若者たちの視野にはやがて当然のごとく入ってくるものだっただろうし、さらに前の時期であればそれが“吉本隆明”であったり“小田実”であったりあるいは“黒田寛一”とかであったり、または“マルクス”とか“レーニン”とか“毛沢東”とか、とにかくそのテの階層に属してる人たちの間で共有されてる、まさに“思想地図”が厳然として存在してたわけです。

したがって38ページ中段から下段にかけての一文、「一九六八年の衝撃のあと、九〇年代後半にいたるまでの日本の批評シーンの趨勢を一身に体現したのは柄谷にほかならなかった」という箇所にも当然ぼくは引っかかる。こんな認識を共有してるのは、80年代半ば以降は、少なくともそれ以降に思春期を迎えるような世代については、一部の特殊な“思想オタク”のタコツボの住民たちだけで、実際ぼくや藤村君なんかにもはっきりと記憶がある80年代末の時点で、“柄谷”なんか“フツーの少数派の若者たち”の間でさえちっとも共有なんかされてなかったよ。

藤村 そうね(笑)。

外山 この座談会に参加してるような、きっと高校時代からデリダとか読んじゃうような一部の特殊な“ヘンタイ”たちの視野にしか、“柄谷”なんか入ってきません(笑)。“フツーの少数派の若者たち”の間にも、80年代後半にはまだ共通のサブカルチャー教養ぐらいはギリギリ存在してて、しかし80年代前半に“YMO”に熱狂してた若者たちの視野に浅田や柄谷がそれなりにフツーに入ってくるようには、80年代末に“ブルーハーツ”に熱狂してた若者たちの視野に“柄谷”とかそんなもん、入ってきませんでしたね。

東野 逆に、その時代に柄谷を読んでたような層はブルーハーツではなく何に熱狂してたんですか?

外山 80年代末というより90年代初頭になるけど、“フリッパーズ・ギター”でしょう。

東野 そうなのかなあ……。

外山 そこはそうだって。信用してください(笑)。……とにかく今のタコツボ化した“批評シーン”の内部で流通してる“虚構の時代”云々に基づいた歴史観がハシバシで表明されてるけど、それ自体が間違ってるんで、そのへんについては、“彼らはまあ、こういう間違った歴史認識を普通は持ってるものだ”ぐらいに“知識として”受け止めておけばいいと思います。間違っちゃいるんだが、彼らの間では共有されてるわけだし、それに基づいてモノを考えるとどういうしょーもない議論になるか、引き続き“検閲”していきましょう(笑)。

歴史区分についてさらに重要な指摘をしておくと、彼らは45年から72年を1つのサイクルと考えてるんだけど、実は“72年”のほうだけでなく“45年”のほうも間違ってるんだよね。“80年代半ば”の“ニューアカ・ブームの終焉”で終わるサイクルの起点は“45年”ではなく、“スターリン批判”に呼応して世界中に“新左翼”が誕生する“56年”です。“80年代半ば”という正確な表現がメンドくさいんでざっくりと仮に“85年”と云っちゃうとして、“56年から85年”というのが本当はワンサイクルなんですね。“グローバル・スタンダード”としてこの認識は通用するでしょう(笑)。“日本が戦争に負けた!”なんていうドメスティックな衝撃でしかないものをそのまま追認しちゃうなんて歴史観は、単なる“自国中心主義”です(笑)。それにいわゆる“1940年代論”という、日本においても、“45年”を境に社会構造の本質的な変化なんて起きてない、って有力な説もあるでしょ。“56年”に誕生して徐々に成長した“新左翼”運動が、“68年”のピークを経て、80年代前半に“ポストモダン思想”の登場と定着によって総括される、というサイクルこそ、西側先進諸国でほぼ共通して体験されたものなんだからさ。

しかしともかく、そもそもポストモダン思想は“68年”の“ノンセクト・ラジカル”の問題意識を言語化したものだし、つまり人々が置かれた状況への違和感や反感を独占的に組織する“党”を否定する思想なんだから、これが登場して定着してしまうと、人々は問題意識を何も共有できなくなるんですね。“ポストモダン思想の定着”は本質的に一瞬の勝利でしかありえず、ポストモダン思想それ自体すら多くの人々の間で共有されることはない、というのがポストモダン思想の理想の実現でもあるという、非常にややこしいことになります。

……40ページの中段に、ニューアカ・ブームについて「そこに、再びラディカリズムが凝集した」とありますが、ポストモダン思想は“68年”のラジカリズムの言語化なんだから、それは当然そういうふうに云えます。ただし、「一〇年越しで、ベクトルを逆転させるかたちで。すなわち、学生運動から現代思想へ」と続いてて、こんなふうに“68年”と“ポストモダン思想”とが異質なものであるかのような、むしろ正反対のものであるかのような整理の仕方が間違ってるわけです。さらにそれに続く、全共闘運動に並走してたような『朝日ジャーナル』が、80年代半ばにはニューアカ・ブームに迎合するような“方針転換”をしたという話も、実はごく当たり前のことで、それはべつに“変質”でも根本的な“方針転換”でもありません。……とまあ、この話をやり始めたらキリがなくなってしまうし、さらに読み進めましょうか。じゃあこの大澤聡の“基調報告”の最後まで読んじゃいましょう。

つづく

ゲンロン「昭和批評の諸問題1975-1989」を読む
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ゲンロン「平成批評の諸問題1989-2001」を読む
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