『ゲンロン』 「昭和批評の諸問題 1975-1989」を読む(2) …本当に91年の「文学者の反戦声明」が「ポストモダンの左旋回」の契機だったのか (外山恒一)


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前回からの紙版『人民の敵』販促シリーズの第2回目である。

紙版『人民の敵』に掲載しているのと同様のコンテンツを別途作成して、こういうものが毎月読めるんだと具体的に提示することを目的として、紙版で最近よくコンテンツとしている、福岡での読書会での議論の全編書き起こしを、紙版用とは別個に1つ用意した。書き起こしたのは6月4日におこなった、東浩紀が中心となって刊行している雑誌『ゲンロン』創刊号(2015年12月)に掲載された、東浩紀・市川真人・大澤聡・福嶋亮大の4名による座談会シリーズ「現代日本の批評」の第1回「昭和批評の諸問題 1975-1989」の読書会である。

内容的には紙版に掲載されるものの平均値ぐらいの“面白さ”である気がする。紙版の定期購読の参考とされたい。

 


(大澤聡「[基調報告]批評とメディア──「史」に接続するためのレジュメ」後半・黙読タイム)


 

外山 よろしいでしょうか? ……しかし、“外山史観”が“批評シーン”で黙殺され続けてる以上は仕方のないこととはいえ、“歴史認識”の根本的なズレを改めて痛感されられますな。

41ページの中段に、90年代には「知的空間の再-政治化が進行した」とあります。そしてその“画期”を、大澤聡は「九一年の湾岸戦争勃発、および文学者らの反戦声明」に置いています。でもこんなの、大嘘だよね(笑)。

藤村 うーん……ぼくはこの頃とっくに自分は“右翼”であるという自覚もあったし、だからぼくの経験を一般化することはできないのかもしれないけど、浅田彰はぼくにとっては最初から“左翼”でしたよ。

外山 91年の“文学者の反戦声明”を境に“左傾”したわけではないだろう、と。

藤村 ぼくが初めて浅田彰の文章を読んだのは、高校時代に本屋で立ち読みした『GORO』っていうエロ本に載ってたやつなんです(笑)。ぼくはそれまで、天皇批判・皇室批判の類はおしなべてバカにしてた。“貴あれば賤あり”だの、“天皇制は不平等の根源”だの、表層的なイメージに寄りかかった“批判”ばかりでバカバカしくて、せいぜい“戦争責任”に関連する形での批判なら聞く意味もあると思ってたけどさ。もちろん当時は竹内好の天皇制批判とか、そんなの知ってる程度の教養すらオレには全然なかったということもあるけど、ぼくが初めて読んだ“マトモな”天皇批判が、その『GORO』ってエロ本で浅田彰が始めた「超ジャーナリズム・ゲーム」という連載の第1回目だったらしい文章なんだよね。それを読んで、「うわー、こんな奴がおるんか!」ってビビった(笑)。89年だったと思う。

その文章が最初なんで、ぼくは浅田彰を最初から“左翼”だと認識してた。ただし、その後チラチラと読んでても、それまでオレが“左翼”に対して抱いていたようなイメージの、“貧しい人たち”が資本主義とかに“苦しめられている”とか、あるいはありきたりな“政府批判”みたいな話も、浅田彰やそれに近いと思われるポストモダン系の他の書き手たちはほとんどやらなかった。彼らは、“国家”とか“天皇制”とか“資本主義”とか、そういう抽象的なシステムみたいなものを根本からあれこれと批判してて、柄谷の『批評とポスト・モダン』(85年・福武文庫)なんかもそういう本でしょ。“天皇主義者”のオレとしては、理論的にも非常に恐ろしい“敵”だという認識でいたわけです。91年の“反戦声明”以降の「知的空間の再-政治化」について、「仲正昌樹のいう『ポストモダンの左旋回』」(40ページ)ともあるけど、浅田彰も柄谷行人も、オレにとっては最初から“左”だよ(笑)。

外山 それはまったくそのとおりなんだけど、仲正昌樹がこんなふうに云ってることも含めて、柄谷・浅田といったポストモダン系の論客たちや、それと親和的なサブカルチャー王道系の文化人たちが、90年代に入って露骨に“左翼的”な言動に走るようになった、という指摘自体は間違ってないと思うんだ。もちろん藤村君の云うように、彼らは最初から左翼だったんだけど、少なくともそうと分かりやすい形での振る舞いは慎重に避けてたでしょ? 読む人が読めば、左翼的なことを云ってることは分かるんだけど、抽象的で持って回った云い方ばっかりしてて、例えばこの湾岸戦争の時みたいな、“平和憲法がどうこう”とか、そんな“分かりやすい”話はしないものだった。その露骨な“水準の変化”を例えば仲正昌樹は“左旋回”と云ってるんだと思う。ポストモダン派がもともと左翼であるのは、そりゃ“68年の思想”なんだから当然です。

藤村 誰にでも分かるようなレベルで“政治的発言”をやり始めた、ってことだよね。

外山 “文学者の反戦声明”の時期だったと思うけど、柄谷自身が、それまでは古臭いオーソドックスな左翼にまだそれなりの存在感があって、露骨に政治的な発言はやりにくかったけど、冷戦構造が崩壊してそういう連中も急速に没落していったから、堂々と云いたいことを云える環境になった、みたいなことをどこかで書いてたよ。

藤村 でも、この“反戦声明”の時のぼくの驚きは、“「護憲」かよ!?”ってことだった。まさか柄谷や浅田ともあろう人たちが“護憲”などという愚劣きわまりないことを云い出すとは思ってもみなかったよ。少なくともオレは彼らを“賢い左翼”だと思ってたし、“賢い左翼”にとって“護憲”なんて話はバカのすることだってのも“常識”のはずだと思ってたからさ。もちろん彼らの書いた文章を読んでみると、云い訳っぽく“あえて「護憲」”みたいな書き方をしてるし、“「押しつけ憲法」であるからこそ素晴らしいんだ”的なワケの分からん屁理屈をこねちゃいるんだけど、“護憲”なんてそんな苦心までして説くことではないだろう(笑)。ガッカリだよ。

外山 ……仲正昌樹って人は、やっぱりそのテの“現代思想”系の入門書なんかもいっぱい書いてて、そういうのを“わかりたい”若者たちにはそれなりに人気のある人ですけど、実はそもそも学生時代は原理研の活動家だったんだよね(笑)。“原理研”は知ってると思うけど、要するに統一教会の学生組織で、統一教会それ自体が“反共”をメインの教義の1つにしてるぐらいだし、原理研は、80年前後の右翼学生運動の一大勢力だったような団体です。おそらく仲正昌樹も学生時代には、当時はまだ全国的に左翼系の学生たちが自治会とか文化サークル連合とかに蝟集して“キャンパスを支配”してたし、そういう状況を打破せんと闘っていたはずで、つまり“現代思想”を云々するようなタイプの論客としては、仲正昌樹は相当な“変わりダネ”なんですよ。ぼくも仲正昌樹の本は何冊も読んでるけど、まさか原理研にもこんな“正統派のインテリ”が存在するとはビックリしました(笑)。ともかく仲正昌樹はもともと“反左翼”だし、ポストモダン系の論客としては珍しく“右寄り”で、90年代以降の多くのポストモダン論客たちの露骨な“左傾化”を苦々しく思っていて、もちろんそのことを公然と語ってもいる数少ない存在なわけです。で、たぶん仲正昌樹も“ポストモダンの左旋回”を批判的に云々する場合に、やっぱり91年の“文学者の反戦声明”をその“画期”と見なしてるんじゃないかと思うけど、そういう見方は間違ってるんだよね。

同じ40ページ中段に「ニューアカ・ブームもふたつの『政治の季節』の間隙に出来した現象にほかならない」とあって、ここで「ふたつの『政治の季節』」と云ってるのは“72年以前”と“91年以後”のことでしょ? 違うんだよ。『青いムーブメント』で完全に論証したとおり、実際には“政治の季節”と呼ぶにふさわしい時代は“80年代後半”に存在したわけです。85年あたりから始まって、87年あたりから本格化して、88年から90年にかけてピークを迎える一連の流れがある。91年には急速に沈静化したんであって、その91年のしかも“批評シーン”なんてタコツボの内部でのみ話題になったにすぎない“文学者の反戦声明”なんてのは、80年代後半の“政治の季節”と仮に関係があるとしても、その“余韻”の1つという以上ではない。“反戦声明”で中心的な役割を果たしたのは、柄谷・浅田といった思想系の人たちだけではなく、そのラインとも従来から親和性のある、やっぱり80年代前半には“非政治的”な振る舞いに終始してる印象を持たれてた、サブカルチャー系の文化人たちもいたよね。いとうせいこうが代表格だけど、いとうせいこうが急に“政治化”するのは、87年から89年にかけての、“広瀬隆ブーム”に象徴される反原発運動の高揚とか、天安門広場を占拠して民主化を要求した学生たちへの共感やそれを弾圧した中国政府への怒りが広範に拡がるという、“政治の季節”の熱狂の渦中でのことであって、91年に突然“左傾”したわけでは全然ない。まず80年代後半の“政治の季節”があって、それは“土井社会党ブーム”という形で、89年の参院選で社会党が勝って参院では土井たか子が首班指名されたぐらいの全社会的な高揚であって、柄谷なんてマニアックな存在の一挙一動に注目してるような好事家たちのタコツボの内側でのみ騒がれたにすぎない“文学者の反戦声明”なんかとは規模も質も話にならんぐらい違うよ。

そういう“タコツボ”のレベルを超えて、ポストモダン系のとくに若手のアカデミシャンたちがやたらと──もちろん左翼的な──“政治的発言”を屈託なくやるようになるのは、それもやっぱり“91年以降”とかではなく、実際はもっと遅くて、96、97年ぐらいからです。それも結局、原因は“柄谷”とかではなく“だめ連”です(笑)。92年に早大の異端的ノンセクト・ラジカルの学生たちによって結成された“だめ連”が、94、95年あたりから、首都圏でだけですが急激に成長して、数百人規模の当時20代の若者たちのネットワークを築き上げる。その中に、酒井隆史だの道場親信だの丸川哲史だのといったアカデミズムの世界でやがて頭角を現す、まだ非常勤講師の職にもありつけてない段階のインテリ青年たちも、松沢呉一といったサブカル系の若い文化人たちも、80年代後半の“政治の季節”以来の“ドブネズミ系”の左翼青年たちも、みんな糾合されていて、お互いに影響を与え合ったわけです。数百人という、規模としては大したことないんだけど、思想シーン、文化シーン、政治シーンの若者たちの要所要所、首都圏の主だった部分がほとんど全部そこに巻き込まれてたと云っていい。90年代半ばの“だめ連”が、それまで断絶してた、とくに思想シーンと政治シーンの若者たちを20年ぶりぐらいに接続した。その結果、まあ酒井隆史や丸川哲史はそもそもオーソドックスなノンセクト学生運動の経験を持ってるけど、その周囲の“研究者の卵”的なインテリ青年たちもどんどん感化されて、“政治的”な発言をしたり、具体的に何らかの左翼的な運動に関わったりすることについて、ハードルが下がるんです。“フリーター労働運動”なんてのも00年代半ばに“だめ連”の至近から登場して、それもまたいわゆる“ロスジェネ論壇”の形成につながるんだし、“ポストモダンの左旋回”って現象に関して、実は“だめ連”はかなり重要なファクターになってる。そういう部分は、この“ゲンロン座談会”に参加してるような、“批評シーン”のタコツボの住人たちの視野にはまったく入ってないんでしょう。

藤村 この後に読む座談会本編でも、90年代以降に関しては柄谷・浅田が中心になって刊行し始めた『批評空間』(91年創刊・02年終刊)って雑誌の存在を軸に語られるんだけど、その範囲で語られるような現象ってのはつまり、“ポストモダンの左旋回”などではなく、“ポストモダンの党派化”もしくは“プレ党派化”とでも呼ぶべきものなのかな?

外山 “タコツボ化”でしょう。それは80年代後半にはもう始まってたことで……世代経験って、およそまあ“どの時期に20歳前後か”で大体決まるじゃん。83、84年に20歳ぐらいで、知的な階層に属してれば、“ニューアカ・ブーム”なんかが自然に視野に入ってきて、“ポストモダン”的教養もそれなりに身につけていくことになるんだけど、80年代末に20歳を迎えるぐらいの世代になると、そこそこの知的階層であっても、そんな世界は普通は視野に入らないよね。そんなのに興味を持つのは、同世代の中でも東浩紀みたいな、ごく一部の早熟なヘンタイだけだったでしょう(笑)。そういう意味では80年代末頃にはすでにタコツボ化は始まってたわけだ。

42ページから43ページにかけて、“ニューアカ・ブームに深い関わりのある雑誌やムック”が、『GS』とか『エピステーメー』とか別冊宝島の『わかりたいあなたのための現代思想・入門』とか、挙げてあるでしょ。しかし『GS』や『エピステーメー』と、別冊宝島の『わかりたい…』とでは、実は読者層がズレてるんだよね。『GS』や『エピステーメー』はニューアカ・ブームに当初から乗れてた人たちのためのものだけど、『わかりたい…』はブームに乗り遅れた人たちのための入門書です。『わかりたい…』のメインの執筆者たちは、まあ小阪修平と竹田青嗣ですけど、さらに笠井潔を加えて86年に『オルガン』(現代書館・91年まで10号刊行)を創刊して、その常連執筆者となる橋爪大三郎や西研とかも含めて、この人たちは80年代末から90年代にかけて大量の“哲学入門書”の類を出しまくる。『わかりたい…』および『オルガン』系の諸々の“入門書”というのもニューアカ・ブームともちろん関係はあるんだが、読者層はズレてて、つまり柄谷・蓮實・浅田に早くから熱狂して、もちろんそれらを難なくスラスラ読めるような人たちは、“竹田青嗣”とか読まない(笑)。読者層のズレというのは世代のズレでもあって、“柄谷・蓮實・浅田”のブームにその初期から乗るには若すぎた世代が、『オルガン』系の著者たちによる入門書の主要な読者層だと思います。

今回の『人民の敵』第32号でのスガさんとの対談で、スガさんがまさにそのあたりを回想してる箇所があるんですよ。80年代末とかのことなんでしょう、早稲田で非常勤講師をやってて、竹田青嗣の『現代思想の冒険』(87年・ちくま学芸文庫)とか読んでる学生が多いようだったんで、「早大生ともあろう者がああいうものを読んではならん。あれは日東駒専が読むものだ」と叱ったっていう(笑)。「早大生ならせめて『構造と力』とかを読みなさい」って(笑)。しかし今から思えば、実はその当時すでに“早大生”にとってすら“ポストモダン的教養”は自明のものではなくなっていて、まず“竹田青嗣”とかで“入門”しないことには“柄谷・浅田”なんか難しくていきなりは読めないのが当たり前な状況になってたんだよなあ、って文脈での話なんですけどね。

藤村 座談会の本編に出てくる話だけど、実は東浩紀もこの『わかりたいあなたのための現代思想・入門』で“現代思想”に“入門”してるんです。

外山 えっ、そうなの!? 高校時代からデリダとか読んでるようなイケスカナイ奴だったんじゃないの?(笑)

藤村 座談会のほうを読めば、そこらへん分かります(笑)。……“文学者の反戦声明”って、それに賛同する奴は味方、賛同しない奴は敵っていう、ある種の“踏み絵”のような作用をした出来事だったように思う。

外山 うん。その時に『オルガン』派は批判に回ったから……。

藤村 右派(竹田青嗣・加藤典洋ら)も左派(小阪修平・笠井潔)も、両方ともね。

外山 それで『オルガン』派は以後、“批評シーン”の主流から完全にハブられた。

藤村 もちろんそれ以前から、“外部派vs共同体派”って対立構図は生まれてたんだけど……。

外山 でも批評シーンの内部での“主流派vs反主流派”ぐらいの対立にとどまってたでしょ? “反戦声明”以降は批評シーンそのものから排除される。

藤村 実はオレが竹田青嗣にのめり込むようになるのは、この時に彼が“反戦声明”を批判する側に回ったという一件が、かなり決定的なきっかけなんです。……この“基調報告”の後半部分には面白い話が多いんだけど、でもやっぱり「ニューアカはぴたり五〇年前の文芸復興(一九三三℃O六年)の反復であった」というのは間違ってて、せめて“プレ・ニューアカとニューアカは”とひと括りにしてしまえば、まだそうも云える気もするのにね。第4節に、双方を支えたさまざまな“メディア”の話が書いてあって、ここは非常に面白い。70年代の“新左翼系総会屋雑誌”がプレ・ニューアカの隆盛を支えた側面があり、80年代にはそれに代わって“メセナ/企業PR誌”がニューアカ・ブームを支えた、と。さっきも云ったように、そもそも“批評”というのは“在野”のもので、大学に籍を持ってない論客にも文章を発表して活躍できる場が存在しなきゃ“批評”は成立しない。しかし90年代に入ると、バブル崩壊で“メセナ/企業PR誌”とかも潰れていって、“さあ、どうする?”みたいな話でしょ。・

外山 だからこそ90年代以降、現在に至るまで、“大学の先生”が“批評家”も兼ねざるを得ないような、ある種の閉塞状況から抜け出せずにいるわけだよね。しかし“総会屋雑誌”から“企業メセナ誌”へ、って段階でかなり“堕落”だよなあ。“編集方針には口出ししない企業”にカネを出させて、書きたいことを書いて食い扶持を稼ぐというのは一緒だけど、“総会屋雑誌”は字義どおり、総会屋がスポンサーだったわけです。総会屋という“反社会勢力”が提供する“ブラックマネー”で、新左翼という別の“反社会勢力”の媒体が運営されるという、考えようによっては非常に“健全”なしくみですよ(笑)。しかし“企業メセナ誌”となると、カネを出す側は一応はリッパな堂々たる一流企業でしょ。まさに“回収”と紙一重で、そういうところに頼っちゃうことに慣れてしまって、その感覚の延長で、それらがバブルで潰れた後も、“総会屋”とか“ヤクザ”とか“中国”とか“北朝鮮”とかではなくもっと“優良な”ところからカネを出してもらわなきゃってことで、ウチの東野先生が徹底批判してる、最近の“助成金アート”とかの問題が生じてるわけだ。優良企業がカネを出してくれないんなら、行政に出してもらおうってことじゃん。

藤村 ……“プレ・ニューアカ”と比べて“ニューアカ”のほうが、より“教養主義”的である、というふうに大澤聡は分析してるよね。例のアナロジーとも関連して、ニューアカ・ブームは「一九三〇年代の『昭和教養主義』に対応する最後の(?)教養主義」であり、「昭和末期教養主義」とでも呼びうるもので、その端的な現れの1つとして「『わかりたい』大衆が膨化した」と書いてる(43ページ)。

外山 ぼくはそこらへんの分析にも違和感があるんだよなあ。“プレ・ニューアカ期”というのは、39ページ中段にあったように「一九七〇年代中盤から八〇年前後にかけて」の、柄谷、蓮實、山口昌男や栗本慎一郎が活躍し始めた時期のことだよね。のちに“ポストモダン思想”と総称されるような一群の“ワケの分からない思想”が群生し始めるわけだけど、“ワケが分からない”のは世間一般から見た場合の話であって、そういうのに熱中してる人たちにとっては、ちっとも“ワケが分からない”ものではなかったはずですよ。だって“68年”の総括をやってるだけなんだもん(笑)。それはニューアカ・ブームの初期というか、“ブーム”に火がつく直前の、浅田彰が登場した直後ぐらいまでそうだと思う。浅田彰だって京大全共闘の直系のノンセクト・ラジカル学生運動である“竹本処分粉砕”闘争の中心的な活動家で、その経験を踏まえての『構造と力』巻頭論文であって、それを“なるほど!”と思って読んだ初期の浅田読者には、一見“ワケの分からない”浅田思想のモチベーションはちゃんと理解されてたはずだ。当時のノンセクト活動家たちにも盛んに読まれたんでしょう。ところが“ブーム”を経て、一段落して、80年代後半になると、ポストモダン思想というのは実は“68年の話”をしてるんだ、ということが多くの人には理解されてないというか、“68年を発展的に継承しなければ!”みたいなモチベーションをそもそも持ってない、ポストモダン思想とかにそもそも興味を持つ“資格”のない連中にまで、知的にちょっと背伸びしたければポストモダン思想ぐらい押さえておかなきゃ、って雰囲気が広がってる。ほんとは“68年”に興味がないんだったらポストモダン思想を“わかりたい”とか思う必要もないし、実際いくら“入門書”を読み漁ったって結局“わからない”よ(笑)。そういう問題であって、“教養主義”がどうこうって話ではないと思う。……まあ『オルガン』派の面々が書いた“入門書”もいろいろで、竹田青嗣はそういうモチベーションを共有してない読者向けに、政治的文脈を抜きにどう説明するか苦心してるし、笠井潔の『ユートピアの冒険』は、ポストモダン思想の説明の前にまず“68年”の説明を一所懸命やるっていう(笑)。

とにかく“80年代半ば”に切れ目があるんだという意識があるかどうかで歴史の見え方がまったく変わってきてしまう。80年代前半までは、“わかりたい”とか何とか思う以前に、ポストモダン思想のモチベーションは自明なんだ。書いてる側も読んでる側も要は新左翼ノンセクトなんだからさ(笑)。“知的向上心”みたいな話ではない。

藤村 浅田彰の学生運動的バックボーンは分かるけど、中沢新一にはどういうバックボーンがあるの?

外山 そっちはぼくにも謎なんだよなあ。はっきり云って“オカルト”でしょ?(笑) いろんな“80年代論”で、ニューアカ・ブームで中沢新一が浅田彰と並んで象徴化した理由について解説されてるのを読むけど、今でもよく分からん。まあたしかにスガさんの『1968年』でも詳しく説明されてたとおり、“オカルト”的な方向への関心の高まりも“68年”の延長線上で起きることではあるから、関係なくはないんだろうけど。

そろそろ肝心の座談会本編に進みましょう。座談会というか、イマドキの“軟弱ヘナチョコ文化人”どもの“雑談”を……(笑)。一応、丁寧に順を追って読んでいくことにします。「1.プレニューアカの可能性」という部分を各自、黙読してください。48ページから57ページ中段までですね。

つづく

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