石原慎太郎は自覚はなかったかもしれないが、新左翼的な文学の最初の担い手の1人。その初期作品は“プロレタリア文学”(外山恒一):『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』を読む(4)


『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』を読む
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前回からつづく

 

藤村 ……ちょっと質問。94ページの栗原発言に出てくる「ピテカントロプス・エレクトス」というのがよく分からないんですが。

外山 それは発言の中でも説明されてるとおり、「八二年にオープンした、日本初のクラブ」らしいです。これまた説明があるように、宮沢章夫の『東京大学「80年代地下文化論」講義』(白夜書房・06年)はぼくも読みましたけど、たしかにその本の中で「すごくフィーチャーされていま」した。

詳しくはその宮沢章夫の本を読むのが一番早いですが、そうだな、橋本治や中森明夫や浅羽通明の云う“80年安保”、つまり80年前後の反政治的なラジカリズム文化運動の、1つの最前線の拠点だったような場所なんでしょう。当時のイケてる文化人やアーティストや“ギョーカイ”関係者たちが夜な夜な集まって、音楽はもちろん、演劇とか美術展とか、現代美術のパフォーマンスやお笑い的なものまで、いろんなイベントもおこなわれてたらしい。宮沢章夫も半ばスタッフ的なスタンスで関わってたんじゃなかったかな。

同時期に勃興した「オタクの思想的なものはこの流れに絡んでこない」というのは、まあ当時の文化的ヒエラルキーの最上位にあったそういう先鋭的な流れと、その対極にあるものとして端的に差別の対象だったオタクってことで、『「80年代地下文化論」講義』の続編の『東京大学「ノイズ文化論」講義』(白夜書房・07年)に載ってる“オタキング”こと岡田斗司夫と宮沢章夫との対談でもテーマになっていて、この対談がまたメチャクチャ面白いんでオススメします。

藤村 ……あと96ページの北田暁大の指摘も非常に鋭いと思う。「文化左翼系の上野俊哉さんとかの議論や実践のスタイルと、雨宮処凛さんとかの労働系、ロスジェネ論壇って、時期的にはちょっとズレるぐらいでほぼ重なるんだけど、だいぶ違う。私は人脈的には切れているんじゃないかと思うんですよ」と云ってて、さらに続けて「外から見ると、カルチュラル・スタディーズ系も貧しさとか若者の苦しみとかを問題化していきましょうとは言う。でも、どう見ても地味な労働系の人というか、ロスジェネ論壇的な人たちとは交わらない」って。カルスタ系のインテリ左翼は、雨宮処凛や赤木智弘といったロスジェネ系の人たちの議論を、単に自分たちに都合のいいような形に刈り込んで利用してるだけだとも云えるかもしれない。

外山 うーん……微妙だ。「人脈的には切れてるんじゃないか」と云うけど、実際には、グラデーション的にはつながってるんだよね。例えば上野俊哉はだめ連とはつながってて、だめ連とロスジェネ論壇はフリーター労組を介してつながってるわけだ。つまり人脈的に切断線はないんだけど、同じムラの端のほうと端のほうみたいな感じで、例えばこんなふうに“上野俊哉と雨宮処凛”の組み合わせだと非常に遠い印象になる。

藤村 でもやっぱり端と端の距離がありすぎで、同床異夢というか、本来なら交わらないぐらい志向の違う人たちが1つの勢力を何となく形成してしまっていて、だからこそ政治的に有効なものをなかなか生み出しにくいということもあるんじゃないか。

外山 もちろんぼく的に整理すれば、フリーター労働運動というのはヘサヨとドブネズミ系の野合で成り立ってて、ヘサヨ部分は文化左翼に近いし、ドブネズミ系は雨宮処凛や赤木智弘に近いわけですね。そもそも志向が違うんだし、藤村君の云うとおり、ほんとはスッパリ切れてしまったほうが力を発揮できるのかもしれない。

藤村 後藤さんが第1章で云ってた、“麻生邸リアリティツアー”みたいなものへの違和感というのも、それと関係する話でしょ。そんな実践は本当に深刻な経済問題の解決に何ら寄与しないもん。

外山 だからと云って後藤和智が98ページで「実際の労働運動で成果を上げている」として評価するのは……「首都圏青年ユニオン」はともかくとしても、もう1つは「POSSE」なんだもんなあ。まあ状況からして仕方ないとはいえ、どうしてこういう触れにくい問題に無邪気に触っちゃうんだ(笑)。「毛利さんの『ストリートの思想』を読んでいて疑問だったのは、POSSEに対する言及がないことでした」とか、無邪気にもホドがあるよ。ぼくですら『良いテロリストのための教科書』ではあえて完全にポッセは黙殺したのにさ(笑)。後藤和智はやっぱり問題だ。こういう人は運動とかに関わっちゃいけない!

藤村 ポッセには何度か言及されてるけど、口火を切ってるのはたしかに後藤さんだ。

外山 実は第1章でも1度言及があったでしょ。……ああ、やっぱり後藤和智が口火を切ってる。50ページで「若者自身によって若者の労働問題を解決することを目指したNPO法人『POSSE』が設立されたのも二〇〇六年です」って。

102ページでもまたくだらんことを云ってるんだ。ロスジェネ系の論客でも70年前後生まれの人たちと80年前後生まれの人たちとでは違いがあるって話をし始めて、もちろん自分自身も84年生まれである後藤は後者のほうを高く評価するニュアンスで、70年前後生まれの人たちは要はすぐ実存系に走りがちだってことでしょう。80年前後生まれのほうが地道な労働運動を志向してると云いたいようで、その筆頭にポッセ代表の今野晴貴の名前をまず挙げてる。これはほんとにマズい。そもそも“80年前後生まれ”で目立ってる現場活動家なんてポッセ界隈しかいないし、それは要するに“誰もいない”ってことです(笑)。

藤村 もちろんポッセの“正体”って問題を抜きにすれば、後藤さんの云いたいこともスジは通ってるし、よく分かるけどね。

外山 うん。で、こういうマジメな人は今は全員ポッセに絡めとられていくメカニズムになってるんだから、仕方はない。そのことの深刻さに気づいてる人もほとんどいないぐらいだし、後藤が気づかないのも当然ではある。

藤村 つまりやっぱり“経済問題”だけ考えていてはダメだってことです(笑)。“政治”のことにもそれ以上に目配りしておかないと、こういうことになっちゃう。

外山 ぼくと藤村君が何の話をしてるのか、とくにweb版『人民の敵』でコレを読む人にはさっぱり分からんでしょうが、親切なので恐る恐るヒントだけ与えておくと(笑)、名誉毀損事件でポッセ側が勝利した後に、そのことも踏まえた上で「やや日刊カルト新聞」ってサイトに載ったルポとか読めばいいと思います。

それと関係あるとも云えなくもないこともなきにしもあらずという気がせんでもないようなあるような話ですが(笑)、107ページの栗原発言にも微妙な名前が登場します。こっちは後藤発言に比べればそれほど罪のない内容ではありますが、「スローライフのイデオローグになった辻信一も、たしか元全共闘ですよね」というのも、たぶん単に無邪気に言及してるだけなんだと思う。実は「元全共闘」ではないし、北田が「基本的に新左翼の人は『身体』に走りますから。ポスト全共闘の津村喬、リブの田中美津しかり」と承けてますけど、いくらなんでも辻信一を津村喬や田中美津と並べてはいけません。

辻信一は本名を大岩圭之助といって、72年に早大の第一文学部自治会の副委員長を務めていた人物で、これだけ云えばもう、学生運動史のごく初歩的な知識を持ってる人ならすぐにピンとくるはずです。「元全共闘」どころか、全共闘側からは今でも相当恨まれてる人ですよ(笑)。栗原さんはたぶん知らずに名前を出したんでしょうし、72年の“川口君事件”は広く知られてますが、辻信一がその関係者であることはまだあんまり知られてないようなんで、仕方ないですけどね。

……ついでに脱線すると、75年にマルクス主義青年同盟という小さな党派が岡山大でノンセクト学生を街宣車で轢き殺して、そのまま遺体を運び去って山に埋めたという事件があって、この組織の指導者だった穂積亮次って人も傷害致死で服役したんですけど、もう10年ぐらい愛知県新城市の市長をやってます(この読書会の後、10月29日の選挙で4期目当選)。もちろん過去に人を殺してようが市長をやる権利はありますし、人殺しより悪い原発推進派の政治家だってたくさんいるんですから、それは全然いいんですけど、こないだ朝日新聞が1面の記事(8月27日。「平成とは」なる連載での編集委員・真鍋弘樹の署名入り記事、「次代へ、渡し損ねたバトン」)で、なんか“頑張ってる市長”みたいに紹介してたのにはさすがにノケゾった(笑)。たぶん記者は知らずに書いたんだろうけど、1面記事なんだし相当何重にもチェックが入るはずなのに、天下の朝日新聞でその過程に関わった誰も気づかなかったということですよね、“人殺しだろうが何だろうが立派な人なら1面にでも登場させてホメる”なんて気概が今の朝日新聞にあるとも思えませんし(笑)。マスメディアとかメジャー言論界って、ほんとにモノを知らん奴ばかりなんだなと思いました(なおネットで検索しても同記事に関して「穂積亮次」に目ざとく反応しているブログやツイッターでの書き込みなども1件も見つけられなかった。記事と無関係に穂積亮次の“過去”を問題視してあれこれ書いているネトウヨはもちろん何年も前からたくさんいる)。

桜子 辻信一の件はとりあえず措いといて(笑)、「基本的に新左翼の人は『身体』に走りますから」っていう、それはどうしてなんですか?

外山 それはやっぱり“68年”に端を発するポストモダン的な、“理性中心主義批判”的な問題意識からでしょう。そもそも新左翼は誕生の時点で実存主義が入ってるし、そういう側面からも“身体”とか“生命力”とかって方向には行きやすいと思う。

……話はまったく変わるが、85ページの栗原発言に、「左翼文化運動が五五年を境に失速します。五五年に石原慎太郎がデビューしたというのは実に象徴的で。石原の登場によって……左翼イデオロギーに支えられた文学は、基盤ごと引っ繰り返されてしまったわけですね」とあります。これはかなり疑問だ。「引っ繰り返され」たのは共産党が主導する文学であって、スガさんもあちこちで書いてるとおり、石原は大江健三郎なんかと共に、まあ自覚はなかったかもしれませんが、新左翼的な文学の最初の担い手の1人になったわけでしょ。『1968年』(ちくま新書・06年)でも、誰か(竹内洋)の評価を追認する形で、石原の初期作品を“プロレタリア文学”と評してたはずです。上流階級の余裕ゆえのリベラリズムに唾を吐くような、下層というよりは中産階級の若者たちですが、“無軌道な若者たち”のニヒリズムもしくはプチブル急進主義を石原は描いたわけですね。未来派とファシズムの関係もそうですが、本来は芸術がその鋭い嗅覚で政治に先行するわけで、実際に60年安保ブントはその数年前の石原のデビュー作(『太陽の季節』)にカケて“赤い太陽族”と呼ばれたりもした。

それに続く「労音」の話もそうだし、なんで「左翼文化運動」に関して栗原さんは共産党系の話ばかりするのか、腑に落ちない。そりゃ、「労音」や「うたごえ運動」がある時期までかなりの影響力を持っていたことは事実だろうけど……86ページから87ページにかけて、労音の圏域から『ミュージック・マガジン』やURC=アングラ・レコード・クラブが分岐して、日本のフォークやロックの展開を主導するようになっていく経緯も語られてます。もっとも、文学とか、あるいは現代美術とかの領域では、共産党系の文化運動からの新左翼的な分岐は政治運動シーンとほぼ同時に起きるけど、音楽や演劇の領域ではかなり遅れて起きてはいる。音楽や演劇でそういう展開が起きるのは、ほとんど全共闘運動と同時期だもんね。

単に栗原裕一郎は旧左翼と新左翼の区別がついてなかったのかな? あるいは新左翼は“政治的でない”という感覚を持ってて、だから新左翼文化も“政治的”でないように感じられるのかもしれない。実存主義的な政治運動が、“王道”の政治運動を志向してる人たちの目にはちっとも“政治的”なものには映らないというのはよくあることだしさ。

桜子 また関係ない質問ですけど、129ページに出てくる栗原発言、「斎藤美奈子みたいに自分から『おかしい』と思って動かないと変わらない」というのは、何のことを云ってるの?

外山 ぼくも具体的なことは知らないけど、そこに至るまでの話の流れから考えて、経済問題を軽視する“日本的リベラル”の1人であったのだろう斎藤美奈子が、何かのきっかけで“やっぱり経済問題をちゃんと考えないとマズい”と思い当たって、主張を変えたということなんでしょう。

藤村 これは思い当たることがありますね。ツイッターかブログで斎藤美奈子がそういう立場変更を表明して、“アベを倒せ!”的なものから距離を置くようになった時に、のちに云うパヨク連中から叩かれてた。細かいことはオレも忘れちゃったけど(註.第3章・196ページで改めて言及があり、栗原によれば、斎藤が「東京新聞の連載コラム」で「野党共闘を批判し、リフレ政策を肯定」したところ、「リベラル陣営は、斎藤美奈子を『寝返った』って言ってクソミソにディスってました」とのこと。16年の都知事選の頃のことらしい)。

外山 まあ全体的に、“どういう方向を目指すべきか”という点ではとくに異論はないが、過去の経緯についてはいろいろ云いたくなってしまうという、そういう感じですな。しかしそこらへんも、栗原さんはぼくの新著を読んでくれたそうだから、現時点ではだいぶ認識も修正されてるのかもしれないし、単にweb版『人民の敵』を読む人のためにいちいち挙げつらってるだけで……。

藤村 でも白井聡の評価についてはやっぱり云っておきたい。白井の『永続敗戦論』(13年・講談社+α文庫)は東座談会でも評判悪かったけど、こっちでもそうなんですね(笑)。オレのほうが『永続敗戦論』を誤読してるのかなあ。

薙野 その本は私も面白いと思いましたよ。

藤村 オレも面白かった。オレは右派だし、右派として読めば、最後のほうで昭和天皇を云々するくだりを除いては非常に共感できる。たしかに経済問題には触れてないという点では、この人たちに“文化左翼”呼ばわりされるのも分からんではないけど、右の反米派にも“アベを倒せ!”って気分を煽ることに成功している本だと思います。オレがもともと加藤典洋の愛読者でもあったから、その問題意識を引き継ぐ人が現れたことが単純に嬉しいというのもありますけどね。とにかくオレは『永続敗戦論』に対する評価は非常に高いんで……。

外山 なのに東ラインからも北田ラインからも酷評されてる、と(笑)。

藤村 北田さんが125ページで、白井聡・五野井郁夫と出した鼎談本の『リベラル再起動のために』(毎日新聞出版・16年)について、「白井さんとはなかなか話が通じなかった」と嘆いてますが、その本も読みました。“今のムチャクチャな政治体制は引っくり返さなきゃいけない”と云う白井さんと、“いやいや、そういう議論は無責任だ”と云う北田さんとで話はたしかにスレ違ってるんだけどさ。

外山 ……そろそろ先に進みましょう。第3章までしかないんで、最後まで行きます。先に読んだ人は「おわりに」まで読んじゃってください。

 

 

 

つづく

 

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